実はもう一つ自慢したいものがあったのです。そういって、隅の棚から出してきたのは二つのグラスだった。「今持ってきますね」向こう側、たぶんキッチンに消えて、濁った液体の入った細長い瓶を抱えて出てきた。

「酒です」

「へえ。よく手に入りましたね。もうないものと思っていました」

「自作です。近くで山葡萄の亜種みたいな実を見つけたので、作ってみました」

「貴重品ではないですか。今日知り合ったばかりの人間に出してもよいのですか?」

「全然貴重品ではありませんよ。でもまあ、そのわけは、飲んでみればわかります」

 注いでくれた液体を口に入れてみる。味は悪くない。悪くはないが、良くもない。

「度数がかなり抑えめですね」

「おいしくないでしょ? わかります。控えめな言い方を選択されたことは。素人醸造ですからね。一人で飲んでほろ酔い気分を楽しむ、とまでは行かない。だからこうやって話の種にする方が味わい方としては上策になるかなあと」

 そう言われてふと、この人に家族はいなかったのかと気になる。その心情がなぜか伝わった如く、一つ頷き返してみせる。

「女房とは、いや妻とはもう別れて、そうですねえ三十五年は経つかなあ。なぜ言い換えたのかと思われるでしょうか。女房と言って、自分らしくないなあと反省した。でも気取ってみたいではないですか。人生に慣れている感が出る」

「なんとなく、面白い。普通は、逆の感覚の気がします」

「そこですね。その弱さが私の欠点なのでしょう。早い話が、逃げられた。そしてこう、さらっと言えるというところにちょっと得意な気持ちがあったりする。人生の熟達者みたいではないですか」

「いや、……まあ」

 気まずいという感情よりも、笑ってしまう。楽しそうに語るからだろうか? これはよくないかもしれない。人と交わることに楽しさが生じてくるのは。それとも、久しぶりの感情に戸惑っているだけなのだろうか。この些細な感情の揺れを糊塗するように話頭を変える。

「酒つくりの経験があったとか?」

「百科辞典で調べました。うちには、あるのです」

「そうか。百科事典なんてものは、ネット時代になって姿を消しましたものね。あんな重厚長大な遺物など家に置いておくわけはない。でも個人の家に残っているとは意外でした」

「気まぐれのおかげで、これも幸運です。百科事典に書いてあること、ネット時代の常識となっていることに比べて、相当知識が古い。いわば天動説が正しいみたいなことが書いてある。そのことが妙に気に入って、子供のころぽつぽつ拾い読みしていたのです。そんなことにもいつか飽きてしまいましたが、愛着はあって中々捨てきれずにいたところ、今になっていろいろ役立ってくれるようになりました」

 少し沈黙する。ピアノの音は続いている。

「これが小説だったら、ドラマだったら……」ふと口から出る。「その、今では手に入りにくい知識をもとに、文明の復興が企てられるというストーリーになるのでしょうね」

 相手はそれまでまっすぐ伸ばしていた背を後ろに深く凭せ掛け、

「それを言えば」と、テーブル上の電化製品を示し、「ここでさらにパソコンを出してくるでしょう。そして、どこかでネットを動かす集団が生き残っていることを確認する。彼らを探す旅に出る、という順番になるでしょう」

「そうはならないのですよね? 一応訊いておきますが」

「うーん。どうでしょう。ああ、これはなるかならないかではなく、そうなったらうれしいのかどうかという自問です。微妙だなあ。もちろん、ならないことは当たり前として」

「それを聞いて安心しました」