自分は、偏屈な老人になると観念していた。人付き合いの苦手さが嵩じて、自然に敬遠され、あまり愉快ではない老後となるに違いないと腹をくくっていた。しかしそうはならなかった。人当たりが良くなったという意味ではなく、あまりに人づきあいがないので、偏屈と言われる余地すらないのだった。評判というものは、人間関係の上での話だ。その元がなければ、好いも悪いもない。

 朝方、そんなことを思いながら、目を開ける。体が重く、なかなか立つ気になれず、眠りに引き込まれそうになる。今日は相当の頑張りが必要だなと覚悟しつつ何とか半身を起こし、カーテンを少しめくりあげて、ちろちろと動く葉影と陽光の戯れに目を細め、安心してまた横になる。それは曙の色だったように思う。正確な時刻はわからない。わかってどうにかなるというものでもないし、する必要もないのだが、ねじ巻き式の時計を一つも持たなかったことは、少し残念な気もしている。正確な時刻を教えてくれる電気式の機械はもうその機能を果たさない。時報もない。

 目覚めて疲れを感じるということは、眠りが不足しているからだ。それが時間を教えてくれる一つ。外の明るさは季節によって違うので、それよりも自分の体が教えてくれることに従う。

 こんな時、昔は音楽をかけるという手もあった。今は代わりに鳥の声や風のさやぎに耳を澄ますということになる。鳥は相変わらず朝方には啼声を聞かせてくれる。以前とどこか違うのかもしれない。少なくとも人族よりは順応性があるようで、気づけないでいる。

 聞き入っているうちに、ぷっつりと途絶えた。何事かと思ったのは、自分の意識のほうが何ほどか飛んでいたのだった。睡眠に戻っている間に、鳥のほうの朝の挨拶は終わっていたのだった。

 軽く食事をとり、いつものごとく外に出る。公園方向に行って見る。手入れする人はいないと思うが、それにしては同じように保たれている。それが当たり前になって、誰も怪しまないようだ。こういう疑問を抱えることが一つの背徳であるかのような気持ちにもなる。何かを解き明かしたいという軽い欲望はあるのだが、どうなるものでもないと打ち消す。これはなんだろう。好奇心は生きる欲望で、それを表に出すのは恥ずかしいことのように感じるのかもしれない。だがなぜだろう。

 誰もが外を歩きたがる。世界はどうやら植物が支配しつつある。動けることが自分たちの唯一の長所である。それを意地になって証明したがっているようだ。

 道から下がったところの小さな川は淀んでいるようだ。まだ浄化作用が行き届かない。雀はいまだに存在する。前をちょこちょこ歩いて、近づくとちょっと前に行く、そしてまたちょこちょこ歩く。まるで鳩みたいな逃げ方をする。いや、雀だろうか。あれは鶺鴒の歩き方ではなかったか。でもそこまで知識が不確かではなかったと思う。雀だろう。

 この川には鴨がいた。もういないかもしれない、渡りをする鳥はめっきり減った。しかし川辺の草の陰にうっすらと動く黒いものがあった。ああ、みんな隠れているんだなとわかる。

 行く先が怪しいのは人族だけかもしれない。