二日雨が降って、気持ちが前向きになる。少しだけ草むしりをする。せっかくなのでできる限り頑張りたいのだが、長時間は持たない。気力が続かないのだ。

 雨は空から落ちてくるというより、大気が水気を含みすぎてあふれ出てくるように見える。すべてが滑らで沈鬱な光を含んでいる。濡れると緑色が美しくなるのは汚れが落ちるからだと思われていたし、実際そうだったのだろうが、今は植物自体も水分を吸収して幾分ふっくらとしているらしい。誰かがそんな話をしていた。誰だっけ。本当かどうかは知らない。でもありそうなことだと思う。

 蚊が一匹、近くを飛んで過ぎた。薄緑色をしていた。何年前だったかのことをふと思い出す。庭に出てほんの少しの動きを感じた。眼をやると、蜥蜴が庭帚の陰にいた。一歩進むとすぐに逃げてプランターの下に這い行ってしまった。なんとなく違和感があった。なんだか薄く色づいているような気がした。それは蜥蜴の青い色とはちょっと違う、もう少し緑がかった感じだった。周囲の色との対比でそう見えたのか? プランターの薄茶の補色は何だっけ? まあ気のせいだろう。しかしどうやらそうでもなく、小さな生き物の色が微妙に変化し始めているようだった。

 昔飛蚊症という目の病気の呼び名があって、黒い筋が視界の中をちろちろと動く症状を蚊が飛んでいる様子に見立てたように、蚊は黒いものとされていた。実は黒は雌で、雄は緑色をしているとそのころの薄い知識を思い出す。雄は草の汁を吸って生きるからである。雌は産卵の栄養を補うために動物の血を必要とするらしい。

 でもその時、不思議な気がしたのだ。栄養供給の生きた対象に近づくためには、薄い緑色のほうが好都合に思える。また、子孫を残すために雌だけが特に危険な賭けに出なければならないというのは、種のバランスとしてあり得ないのではないか。何しろ危険な人族に近づいて手のひらで叩き潰されたり、ピレスロイド系成分で処分されたりするのは決まって雌なのである。もちろん、それはそういう風にできているのであるというなら、その通りだ。しかし進化論というものの本義に照らすと少しおかしい。

 いずれ人の飛蚊症も視野の中に緑色の虫が飛ぶようになるのだろうか?

 くだらないことを考える。作業に飽き始めたということだろう。切り上げて手をこすり合わせる。さすがに雨量が足りないか。庭の隅の石桶にたまった水を使う。そのあとで濡れたままの服をごしごし擦る。洗う手間が省ける。これできれいになると思うのはたぶん気のせいで、汚れを広げているだけかもしれない。

 雨が嫌いな生き物がいて、好きな獣がいる。人は、長い間雨を嫌っていた。自分もそうだったはずだ。あの時の気持ちはもうよくわからなくなっているが、雨に打たれることを屈辱とでも思うのか。それとも、単純に不快だったのだろうか。これが不快なわけはない。雨は自然の一部だ。しかし記憶は嫌っていたと言っている。

 屋内に戻り、着替えはする。服の残りは乱雑に衣装ケースに放り込んである分と、簡易ラックにあるものだけだ。そろそろ街に出かけて代わりを持ってくるべきだろうか。でも、どの程度ストックがあるのだろう。濡れた方は浴室にしつらえたハンガーに吊るしておく。水が止まっているので、この浴室も今は湯を張られることはない。

 どの程度の店が残って、そこにどの程度の物資が残っているのだろう。今の残り人数がすっかり消えるまでは十分持つような気がするが、そうでもないのかもしれない。わからないが、別に興味があるわけではない。なくなったら、何とかなるだろう。

 町まで出かけて調達するという行為を考えただけで、億劫になり、後でいいやという気になる。たぶん誰もが、こんな先送りの合理性のとりこになっているのだろう。こういう気持ちになるのは、緊急の必要性がないことだからだと思われる。必要になれば嫌でも行動する。確信は持てないが、さすがにそうなるだろう。

 それが合理的であるのは、個人の合理性ではない。全体のバランスが取れるという意味での合理性だ。すべての生産的な活動が徐々に停止していった。それまでの人類の行動原理からして、あふれる物資の取り合いが始まるはずだったが、そうはならなかった。そもそも、生き延びようという欲が先に消えていったからだと思われる。生産する欲望は、生きる意志からくる。その大本が怪しくなったのだから、違って見える、実は同じことの二種の表現形態の低減が起きたのである。

 最初の中は、品物の代金をレジにおいて店を出るという律儀な人も多かった。しかし貨幣がもう価値を持たないのであってみれば、その行為は何の代償であったのか。何度か考えてみたが答えは出なかった。そのうちばかばかしい自問自答に疲れて辞めてしまった。そこにあるものはもう自然環境の一部であって、必要なだけ持って帰る。必要以上にとれば持て余すだけでいずれ負担になる。その摂理が、あまりに自然に、人々の腑に落ちていった。たったそれだけのことだ。