私は日常的な情景をそのままにとらえたことがすべての思考の基本であると思っている。だから不自然と思われる、過度に数学的で強引と呼べるように組み立てられた意見を排すべきとは思うのだが、反面、自分自身で考えるその自然さが、単に先入観によるものである危険もあるのだろう。

 良く挙げられる例が、地球が平らであることや動いているのは天球のほうであることが自然な感情で、科学の発達でようやく真実が明らかになったということだ。つまり日常的な直観を重視しすぎることはよくない。この意見はもっともらしいけど、間違っている。古代ギリシアでは地球が丸いことや、太陽までの距離も大体正確に把握されていた。それは深い井戸に差し込む太陽光の観察で分かったとされる。また、地球が球体であることは外洋に出ればすぐにわかる。水平線が円弧を描いている。太陽が沈んで、翌朝また昇ってくるのは地面の下をぐるりと回ってくるのだと想像でき、すると地面も太陽と同じ形である方が合理的であるということになる。月食の浸食具合は、太陽と月の間に何か球形のものが割って入っているのだとすれば説明がつく。

 これらを科学と言えばそうなのだろう。しかしすべて日常的な感覚の延長で理解できる。基礎教育レベルの知識(つまり太陽という巨大な光球があって、地球や火星がその周りをまわってというような図をさんざん見ているという経験)があるから飲み込みやすいということはあるのだろうけれど、それがないとしても、丁寧に説明されれば、たぶん頷くことはできるのではないか。どうだろう。頷くことができるという自信そのものが先入観なのだろうか。

 これに反して、たとえば高次元空間の存在は単なる比喩表現であって、それと結びついた数学的虚構であると思う。なぜなら実際に高次元を示す兆候は何一つ存在しないと思うからだ。あると言われているものは、どれも表現の綾に過ぎない。そして数学とは考えることの放棄であると思える。電卓もパソコンも考えているわけではない。

 これはもちろん個人的見解だ。そしてこれが間違っているのかもしれない。かもしれないではなくて、完全に、明らかに間違っていると言われてしまいそうだが、まあ私が個人的に自分の先入観の度合いを検証している場であるので、あくまでも「かもしれない」だ。つまり私には高次元説が正しいという理由が全く理解できない。そういうことにすぎない。

 これは何回か繰り返してきたことだが、話の流れとしてもう一度書いておく。まあ、主張したいことがわかっているなら、読む必要はないかもしれない。

 目に見え、手で触ることの可能な事実、要するに現実生活の場で四つ目の次元など存在しない。少なくとも、直観の対象として私たちの環境に現われることはない。ここまでは誰も積極的に反論できないはずだ。しかしその意見は幼稚であると嘲笑する人が大半であることも事実だろう。相対論を批判する人は多いが、しかしそのかなりの部分が量子論は無条件に正しいとしているらしいことから察せられる。超弦理論を始めとして、他の分野でも高次元を認める考え方がいくつかあり、そのことが相対論の批判者すら少し躊躇してしまうところなのかもしれない。しかしこういう愚にもつかぬ疑似科学を広めた元凶が相対論だったのだ。

 私たちの生活の場に、直観的対象として高次元が存在しないなら、それは存在しない。理論が高次元を要求するという意見はあるが、一種の比喩として扱うということにほかならない。たとえば時間を第4番目の次元として扱う時空概念ならば、相対論とは無関係に利用する。その場合に、時間と空間は全く性質の違うものであることを承知で、概念空間の内部でのみ使うわけであり、現実的ではないことを理解している。これを比喩と言う。したがって、ここから文字通り高次元空間が現実にも存在するという飛躍は否定するのだ。

 2次元は直交する二本の座標軸で表現される形であり、3次元はそのいずれに対しても直角に交わる座標軸を設けて表現する形である。それ以外の意味はない。したがって、空間としての4次元とは、その3本のいずれに対しても直角に交わる座標軸を「現実に」引くことができる状態を指す。単なるパラメータを一つ二つそこに加えて演算処理の対象にすることは、科学理論としての正しさを主張することは可能であるにしても、新たなパラメータは明らかにそれまでの3本の座標軸に記されたパラメータとは別の性質を持つものであって、これを4つ目の次元と語ることは単なる比喩だし、空間論であると言うなら明らかな間違いだ。

 私たちが高次元を信じてしまうのは、一般的な思い込みとは逆に、低次元の存在を信じているからだろう。2次元世界があり得るのなら4次元世界もあり得る。つまり4次元とは、1次元空間が存在し、2次元が存在するという信念を、さらに押し広げた先にある。

 しかしそれら低次元の宇宙は誰も見たことはないし、現実には存在しない。よく引き合いに出されるホログラムにせよ平面の絵にせよ、最低でも素粒子の厚みを持つ。あるいは、プランク定数の厚みを持つ。いずれにせよ、それが2次元であるとするのは、厚みがないよう見立てるというたとえ話にすぎない。どんなに薄いタッチ画面を作っても、それは3次元的物体であって、全く厚さを持たない2次元の存在ではない。絵は絵の具の粒子、あるいはインクの粒子が紙に載っている。もちろん紙も厚さゼロではない。

 厚みを持たないものは、万が一あり得ても、3次元のこの世界に全く関係も影響も持ち得ないだろう。持ちうると考えるのは3次元のこの世界の性質を誤って2次元に投影するからだ。エネルギーもほかの物体との干渉も情報の蓄積も3次元的な存在のみが持ちうる性質であって、その性質を頭の中で抽象的に操作するとき、2次元上でも同様に展開可能だと思えてしまう。しかし私の目の前に皮膜のように2次元世界が広がっているとして、私はそれに触れることはできないだろう。手を差し出して、皮膜を突き抜けるとして、そこに別宇宙があると知るためには、私の手に何らかの抵抗が与えられなければならないが、それはやはり厚みを持つものの性質を、ただ空想の中でだけ、その皮膜に与えるのだ。なぜならそれは空間という数学的構築物の断片であり、まさに空間という性質、しかも現実の空間ではなく数学的な空間の性質しか持ち得ないのだから。

 そしてまた、私たちはなぜ薄い皮膜のようなものとして2次元世界を考えてしまうのか。それは点のランダムな集合であってよいはずだ。もちろんそれならば3次元も同様にランダムであってもよいわけだが、つまり4次元空間内の点の、ランダムな集合体であったとしてもよいわけだが、現状のような秩序だった存在として成立している。私たちの想像する2次元世界が、その秩序に対する比喩としてしか成り立っていないということの反映が、薄い皮膜のような世界ということになるのではないか。

 私たちは一つの2次元世界をどこまでも平坦な一枚の紙のような形で想像し、それを重ねることで3次元になると思い込んでいるが、いくつかの紙世界が互いに交錯するような形で存在することもありえることになる。それならば2次元の存在のままで別の世界に行き来できることになるのか。世界を限定する方法はないのだから、結局のところ2次元が3次元の中にあるなら、一つの2次元世界は他の無数の2次元世界と交錯した状態で存在すると考えることもできるではないか。それは要するに2次元世界は3次元世界と、数学的に、あるいは理論的には同じということにならないか。

 ならば3次元と4次元も同じなのである。要するに写像関係に置くことができる。実はカントールの実無限論でも、線分(つまり1次元)と平面は同じであるとされる。立体も同一視できる。

 だから4次元はあると考えるか、すべてが3次元に還元されると考えるのか、それはまあ人それぞれではあると思うが、だったら3次元が尊重され、ほかの次元は言葉上のものであると、私は考える。