シュールレアリズムは古いだろうか。そうかもしれない。

 一つの短編小説を書きあげようと、ずっと苦闘しているのだと、佳奈に言ってみた。私はいつだって集中力が足りないし、努力ということのできない人間なので、苦闘というほど力は使っていないが、少しも行く先が見えないのは、さすがに気懸りではあるのだ。

「ぼくはこんなつまらないものを引きずりつつ死んでゆくのだろうか。」

 悄然として言うと、

「ラフカディオ・ハーンの作、Diplomacyはこんな話よ。刑に処されんとする罪人が死して祟りをなすと宣言する。それほど恨みは深い。奉行は彼に言う。死んだ後に何かができるとは思わぬ、できるというなら証拠を見せよ、例えばそこの石にとりすがって見せよ。刑は執行され、胴体を離れた首が確かに石にかじりつく。一座は怨念の深きに恐れる。しかし奉行はそれを否み、彼奴の念は石に向けられたままである。そのことで呪詛はすっかり忘れ去られた。案ずるには及ばぬと宣される。」

「それはなんの喩えだろう。」

 つまらぬ未完の小説は引きずるにふさわしいことであろうか。そういうことか。

 でもまあ聞いてくれよ。それは古い五階建てなのだが、妙に気をそそる場末的な装飾感がある。夢の中の小路の奥の方に、いつもひっそりと控えている。この小路に迷い込むのはいつも夕暮れ時で、ちろちろと窓明かりが寂しく誘いこむ風情に揺らめいているのだった。向かい側は模造品の煉瓦造りの二階建て雑居ビルで、その向こうは傾きかけた雑貨店で、シャッターが半分降りている。逆三角形の顔をした眼鏡の店主が時代遅れの前掛け姿で棚卸をしている。もっと向こうにはパン屋もおもちゃ屋も米屋もあることがわかっている。しかし茫漠として灰色の影の中に溶け込んでいる。空から色のない月が見降ろしている。

 私はたぶんこの建物の管理人だった。いまさら額縁のような幅広金枠にガラスの重い扉を排すと、すぐに赤じゅうたんの段々がある。上がってそのまっすぐ行った奥に管理人室がある。だがそこは余りに狭く隠微な雰囲気があるので忌避したくなる。そこでの生活はいつもみじめなものだった。寝所の横に給湯室があるのだが、貸事務所の連中がお茶をいれるその場所で縮こまりながら立ったままの食事を済ませる。あの時代には戻りたくないので管理人室には近づかない。地下にはボイラー室と配電室と、そして遊技場がある。メダルゲームだけなのだが、実際の硬貨を使う。だから景品もそのものがばらばらと払い出される。しかしこれは酔って気が大きくなったものに用意された機械に違いないので、罪のない欲と些細な見返りで人生を制覇した気になる愚かさが要求されるのであってみればきっと今の私には用がないだろう。またその地下の重苦しい雰囲気は確かに私の心を魅了するのではあるが。ボイラー室のすすけた壁面と、ああそして階段わきに備えられた非常階段の終わりがさらに奥まったところにあって底に個室の便器がある、あれはどういう仕組みなのだろう。地下に潜ると二つの悪夢を見ることが予想される。珍しい。秘密を握られ、殺しかけた子供?と隅っこで会食し、席を立つときっと告げ口されるのだ。

 なぜ階段に惹かれるのだろうか。夢の階段は私の場合だがいつも上っている。そのことに意味はあるのだろうか。

 何階かの窓から、裏向こうの住居が見える。入り組んだ不思議な作り。壁からいくつもの部屋がぼこぼこ浮き出している感じ。その屋根が強風でぱかっと外れ、こちら側のどこかに落ちる。ボール紙でできているようだ。その窓の女と目が合う、髪を染めて派手目の化粧をした、私の苦手のタイプのようだ。

 やむなく屋根を拾いに行く。ダイニングのような入り組んだ階下、食堂、裏の壁、その向こう側に行けない、屋根はそこに落ちたと思われる。扉を探す。廊下のリノリウムが沈鬱に光っている。

 なぜ出られたのかはわからない。メルヘンランドの模造品のような広間に出る、ああ、出口が隠されていると思うが、どうして探り当てられたかは不明。小ステージの上に探し物がおいてあるが、それは緑色の帽子だった。それを拾い上げて奥に行く。鍾乳洞を建物化したような通路をかいくぐってもがくように上に行く。いくつも扉があるが何かおぞましい予感に撃たれて。

 階段を上がって、さらに上がって、何の装飾もない立方体の部屋に、いつの間にかたどり着いている。そしてとじこめられている。驚くことに灰色の壁の外はそのまま稠密な壁の成分が永遠の彼方にまで広がっている。あるいは詰まっている。

「もちろんそれは孤独の象徴なのでしょう?」

もちろん解釈してしまえば安っぽい仕掛けさ。何の装飾もない立方体の部屋に、思念体としての自分がとじこめられている。驚くことに灰色の壁の外はそのまま稠密な壁の成分が永遠の彼方にまで広がっている。あるいは詰まっている。そう思えてしまう。

 狭い部屋に一人でいる。いうなれば私は体を持たない、実体を持たぬ意識体である。だからして、私は密室に閉じ込められているのではなく、世界にこの部屋ひとつしか存在しない、かかる場所に否応なく閉居している。壁の向こうはある意味で無かもしれず、あるいは無窮の果てまで、何物とも知れぬ灰色の稠密な壁の物質が続いているのかもしれない。

 それは思い込みかもしれない。私は自在に動けることを利用して、壁の向こうの探索を試みるが、あまりにも恐ろしく息苦しく、一米と離れることができない。もしそれ以上あちら側に踏み込むと、この部屋のありかを二度と探り当てることができないかもしれず、永遠に続く薄闇の恐怖の中で、ずっともがき続けることになるのではないか。無限の空間悄の中で極小の一点を探り当てるには、さらに無限の時を要するのではないか。その思いが恐怖であるところを見ると、人はこんな狭苦しい隙間でも、空間があるだけでありがたいのか。

 短編のテーマだけは確定している。ペシミズムは心地よいが、厄介さもあり、すなわち怠惰と見分けがつかない。そしてペシミストが傲慢であることは希であり、その優しさから、進んでおのれの資質を見間違いに行く。すなわち他人の指摘をあえて否定しないで、おのれの怠惰さを認めてしまう。だが、そう、他人が怠惰であることで傷心に沈む人のなんと多いことか。これはひとつの罠かもしれない。軽いペシミズムを口にして、煙たがられておれば望み通りの孤立が達成できたかもしれないのに。しかしそれはまた、あの原初的恐怖への後戻りなのか。

 作品の結末は、独我論に対する独創的な表明で終われたらよいと思っているんだ。独我論とは、世界に自分一人がいるという考え方のことではない。世界対人の心という二元論の解消を目指すものである。心に世界の似姿が映されるということではなく、世界の側に心がすっかり投出されているという方向で、むしろ発想を逆転させるのだ。つまり、世界には心しか存在しない。

 しかし、どうなのだろう、それを小説作品とすることは、理論の軽さ、フィクションで構わないという言い訳を最初から用意するものではないか。そこが、いつまでも手間取っている所以なのだが。

「その部屋の、無限の距離の向こうに、別人の部屋がある。そういうことでどうかしら。」

「それは面白いかもしれない。ただ……。」

「ただ、どうなの?」

「ぼくは面白いとおもうけど、ストーリーにはならないなあって。それは面白くないということかもしれない。」

「よかった。安易すぎる象徴だというのかと思った。」

 私もよかったよ。安易な胎児願望の具現化と君は言うだろうと思っていたから。