「たとえば現象学だが」と書き出してだらだら続けているが、二千文字程度で終わるつもりのことを言うはずだった。それは二十世紀の学問は微妙に政治的な偏向があり、信じられるほど純粋ではないということだった。

 地政学や戦略論という分野があり、古くは「孫子」「墨子」、歴史の形をとっているがトゥキディデスの「戦史」などがこれに当たり、近代ならクラウゼヴィッツの「戦争論」などもある。欧米では今も一つの大きな思考分野として成立している。コリン・グレイやミアシャイマーという著者がいるが、キッシンジャーが地政学という言葉を政治の場で多用した影響が大きいのかもしれない。

 ところが日本では全く本格的な取り組みがない。これは、現代地政学がドイツ発祥とされるからだ。つまりドイツ、帝国をどう拡大するかという観点からハウスホーファーなどがいろいろ書いた、日本は当時の関係からおもにドイツの思想を導入していた。戦争で負けたからこれらがすべて悪で間違っているものとされた。

 言うまでもないと思うが、欧米には欧米の地政学が存在していた。マハン、マッキンダー、スパイクマンと続く系譜だが、シーパワーとランドパワーの戦略の違いを指摘することが軸になっている。マハンは世界を制するのは海洋を制する国であるという観点から述べている。アメリカはしたがって海軍力に力を入れるべきと述べていて、これは楽観論的かもしれない。続く二人はドイツとロシアというランドパワーが結び付くとユーラシア制覇が可能であり、戦略の要諦はこの二か国の結びつきを阻止することであろうとする。幾分悲観論に傾いている。以前は物資を大量に輸送するのは船だけだったのだが、鉄道が引かれたことで内陸国どうしでもそれが可能になったという時代背景がある。

 日本、イギリスは否応なく海洋国家であり、取引によって物資を補うことが必須であるからいやでも自由主義的になる。これに反し大陸にある国は領地を拡大することで国を豊かにできるので専制的であって構わない、そのほうが効率が良い。ざっくりしすぎと思うかもしれないが、先史時代からそのように生きてきたということであって、その気質は残っている。

 ドイツの志向は簡単に言うと陣取りゲームということになる。英米はどれだけ仲間を作ってゆくかという発想になるだろう。日本が第二次大戦ではもっぱら陣取りゲーム的に動いた。失敗は明らかであると思う。まあ、米が日本をつぶすつもりで最初から動いていた場合、避けられたかどうかはわからないが、一応マッキンダーだったかな、戦後に米は絶対に日本を必要とすると予言している。だから最大の友好国になるはずだ。これを言ったのが真珠湾亜攻撃の直後だったので、ばかばかしいと笑われたが、実際にその通りになった。

 まあ、簡単に言うと、ドイツの地政学が日本に役立つはずはないし、欧米の地政学はその上を行く見識で展開していたのだから、思想の輸入元を間違ったというしかないのだが、羹に懲りて膾を吹くというやつで、地政学はみんなだめということになった。

 これは例としてぴんと来ないか。しかし日本人は昔の名残だか何だか知らないが、どうもドイツの思想に妙に親近感を持ちすぎる。これは何なのだろう。ハイデガーがこれほどあがめられる国は珍しい。彼はどう考えても日本民族を猿と同類に考えている。ドイツ民族至上主義者だ。

 ハイデガーは現存在(人の存在論的な呼称。別に、普通に人と言えばよいのではないか?)の根本的様態を不安と呼ぶ。心理学としての現存在分析によって、ある一個人を語る場合にはそれでよいとして、存在論の次元で現存在そのものにこういう意味付けがなされるのは、いくらなんでもおかしい(どうせ、普通の意味の不安ではないという理屈になるのだろうが)。ここで意味付けされたのは、すでに超越的存在として語られるべき自我であり、そこを中心に展開される理論は普遍性を持ちえぬからである。これもまた、不安を強調するべき時代背景が彼の存在論に紛れ込んでいるのであろう。そしてその不安を超克する一要素が民族的自覚ということになる。いや、戦後の日本がこれを受け入れたくなることは、こう読んでくるとわからないでもない。しかしこれは存在論ではない。