難しく考えないようにしたいと言いながら、小難しいことを書いてしまうのが悪いところではあるのだが。

 猫という基本観念が存在し、個別の猫はその例化表現である。こう書くとうさんくさく感じるが、プラトンの思想は簡単に言うとそういうことだ。三角形というイデア的実体があってすべての三角形はその派生形であるということであれば、なんとなく正しそうには思える。そこには数学的に記述可能な、何か共通の理念があるのだろうと感じる。人の場合にはどうだろう。少し怪しくなる。人の原型が存在し、すべての人間がそれをひな型として生まれてくる。ちょっと違う気がする。

 これは数学と生物学の差だろうか。でも三角形だって、別に本体があるとは思えない。理想形ということであれば正三角形になるのだろうか。プラトンなら架空的事実のほうが正しい上に理想的であると言うだろうから、そう認めるだろう。でも三辺が等しいなどという性質は、むしろ例外的であるだけに私の感覚としてはのけ者でありいびつなのではないかということになる。不等辺三角形を三角形として認めるにあたり、誰も正三角形を頭に浮かべて、その比較の上でこれは三角形であるに違いない、などという思考はしない。三角形とは、「三つの辺、または角を持つ形である」という言葉で表現できる、観念というよりはそれ自体も言葉ではないのか。厳密に考えるなら、厚さを持たない二次元的な形であったり、きれいに縁取られているイメージだがその縁取りそのものは見えないはずであるとか、そんなものは現実で見て取ることはできない。そういう意味でイデア的と言えないこともないが、逆に私たちが日常で三角形と呼ぶものの語の説明であるとも言えまいか。

 猫や人は、さすがに単なるそういう言葉であるとは思いにくい。つまり生物学的な事実が奥にあるだろうという感想になる。でもたぶんそれは、科学が発展して来てからの後付けだろう。私たちはそんな知識がなくても猫はまずもって猫であると認識する。すると猫とは猫らしさという受容的感覚の説明でしかないのかもしれない。様々の知識は、その補助でしかない。昔は有色人種を人族と認めるかどうかで大論争があったが、あれも理想形があるという前提で考えていたからだ。現在は、無事に人は人であるという結論に落ち着きつつあるが、これも要するにイデアなどというものが存在しないことの説明になるのではないか。

 ではすべて言葉かと言うと、もちろんそんなことはないのであって、哲学の教科書みたいなものを開くと、唯名論と実在論の違いについて書いてあると思う。抽象概念はそういう名を与えられた言葉に過ぎなくて実際に存在するわけではないという立場が唯名論、そうではないとする方が実在論となる。唯名論の記述を読むと、そちらが正しいという気になるし、実在論もなんだかこちらが良いようにも思う。そういう風に書いてある。そしていまだに決着が見えていない。

 これは哲学的難題だからだろうか。多分そうではない。形而上学的に全部ひとまとめの理屈を見出そうとするから解きほぐせない謎含みになってしまうのであって、一つ一つ、その場の言葉遣いにおいて抽象度の違いがあると言うべきなのだろう。これはあいだを取った、どっちつかずの生ぬるい解釈ではあるが、とりあえず大まかな見方としてはそういっておくしかないように思う。

「きょう、狸みたいな色合いの動物をちらっと見かけて驚いたが、どうやら猫のようだった。いや、それとも本当に狸?」「昔好きだったチョコは珍しい三角形の形をしていた」これらの文章に曖昧さはない。猫と三角形という二つの言葉は実在も抽象的な方向も指示しており、理論的に厳密な正確さはないということはできないと思う。

 つまりだ、プラトンは極論だから間違っているとして、ウィトゲンシュタイン初期の、哲学的問題はすべて言語の誤った理解によるものであるという意見も極論だ。なぜかその意見と、語れぬものについては沈黙するしかないという「論哲」の有名な結論ばかりがもっともであるとして引用されるが、もし本当にそう思っているなら「哲学探究」までの前進はないわけで、自分でその言葉を信じていなかったことがわかるではないか。