ヘーゲルはマルクス主義に根幹を与えたから、もう端から認めないという人が一定数いて、それはある意味で正しいわけだが、なんとなくそれは逆にとらえそこなっているかもしれない。同時代人であるショーペンハウアーがヘーゲルを嫌っていたのは、そのあまりに国家主義的なところだったからだ。それはマルクス主義とは正反対のところにあるのではないか。

 国家主義と言っても、愛国心があるとか世界の安定のためには国家というまとまりが重要であるとかいうのであれば、常識の範囲の見識で、問題はない。ヘーゲルはこれを人類の理性の結実した有機的な一種の生命体であると論じた。さらには絶対精神だのなんだの、比喩以上のものではない言葉が多発する。哲学史を読むと、たぶん飲み込みやすい言葉で書き直されているから、そういう思想もあるのかという気にさせられるかもしれないが、実際に読むとこれをとてもまともに受け止める訳にはゆかないと思わされる。ショーペンハウアーはそこにいら立っているわけだ。

 ハイデガーの主張もサルトルの主張も、きわめて個人的な色彩が強い。サルトルの「存在と無」を読んでまず思ったのは、なぜ対他存在が対自存在と同様の重みをもって語られねばならないのかという疑問だった。対自とは簡単に言えば自分を把握できるということで、対他とは自分が他人の目にどう見えるかということだ。対他は、他者の存在論ではなく、どう見えるかがそもそも「私」の存在論なのである。それは人との共同の中にいるという世間知的で常識的な意見ではなく、最初から普遍的人間の一発現として私があるということだ。

 内面の絶対的な孤立性を、存在論の次元において解決することにより、観念論のそしりを免れようとしたと、まずは考えられる。しかし、自己が自己にとっても超越的であるとする、彼の胎児存在の定義の中に、すでに独我論を反駁する材料があるのであれば、他者の内面性をよりどころとする仮設が必要であるとも思えない。ではなぜ他者の主観性にこだわる――と言えば哲学的に響くが、要は人の目が気になるのか。ここであり得るべき理論は、対自存在を補助的に解説する、それだけでは独立しない第二義的な価値のものではないのか。

 小説の「嘔吐」を読むと、その答えに見当がついてしまう。嘔吐とは、存在の生々しさに対する抑鬱的な気分を表現している。生きていることの意味がつかめず、ウィリアムズ・バロウズ的な汚辱にまみれた妄想的日常の中に主人公はいる。これは実際のそのころのサルトルが病的に参っていたことを書き進めたものであるという話だ。もちろんかなり形而上学的な方向に振ってある。

 対他存在とは、対人恐怖症の理論化ではないのか? 同時にそれは時代の閉塞感を存在論に仮託して語ったものではないか。「嘔吐」は「存在と無」の小説版だが、「存在と無」はサルトルの生活実感の存在論化ではないだろうか。病的で先鋭化したこころが常人では見えない真実を射抜くということはあるかもしれないが、これはそこまで至っているという気はしない。単に病的であるように思う。ただし、読者側がその時代の傾向に影響されて歓迎することはあるだろう。

 途中で出てきた、普遍的な人間のひとつのイグザンプルとして私があるという、このような考え方が成立するだろうか。私は認めたくない。しかしそう考える人も多いことは確かだ。