人生に疲れて死に場所を求めていた。全国の鄙びた地方を経めぐり、適当に迷って人知れずふっつり消息を絶てる場所はないものかと思った。いまさら、崩れかけたような宿屋はないのだろうとは思いながら。

 いきなりこんな文章を書いてしまったことで、もう充分自分の疲労具合が分かろうというものだ。あまり新しい考え事ができない。直線的に、気持ちの縁をなぞることしかできないようだ。

 私は何に疲労していたのだろう。人生の複雑さに適応できなかったのかもしれない。ただそれだけのことだったのだろう。なんと心弱いことか。仕事は複雑すぎる。自分以外のたいていの人は、なぜ適応できるのだろう。でも本来、世界に複雑さとか単純さとかはないのではないか。そういえば人の文明史はなぜこうもちょうどよい長さなのか。たどれるだけでおよそ五千年前後。深く神秘的と呼べるほの暗い過去と、明るい近代の短さの調和。とても不思議な気がする。偶然ではないかもしれない。人の社会は複雑でしかも変化してゆく。変化は、私の見る限りでは複雑化するということになる。ここまでの不自然がこの先も続くことが人の天性ということなのか。教育機関で二十歳前後まで拘束され、その後も社会の厄介極まりない仕組みの中で泳ぎきることを要求される。何も自然なところがない。複雑な魔社会システムと、いやそれだけならばあきらめもつくのだが類人猿の滓を引きずる人間関係の良くわからない混淆の中でもがくことを要求される。理性と本能を共に研ぎ澄ませということか? それは両立可能な概念なのか?

 人々が、無駄なまでに頭が良いことに驚愕する。日々鍛錬し工夫し新しい技術を取り入れる。みんなこうなのか。狩りのうまい動物は称賛されるだろうか。子孫を残す確率が上がることだけが報いなのか。

 それとも、今の狂気じみた複雑さも千年のちには適当な雑さで概念化され、今私たちが石器時代はこうであったと簡略に述べる程度の記述にすり替わっているのだろうか。記録は残って行くから、それは考えにくいところだが、記録はすべて摩耗してゆく。非常に皮肉なことだが石板に書かれた文字は紙よりも残る。そしてCDやロムというものは、実は紙よりも消耗度が激しい。CDの劣化はレコード盤よりも速いのである。データは、本当に未来に残ってゆくものなのか? いや、それよりも、必死に保全する価値はあるのだろうか。

 人類の目標は、この地球上だけの複雑化過程を宇宙に広げることなのだろうか。それはいくら何でも狂気の沙汰のようだが、実際にそこに向かっているように見える。