過去の事跡は「確実」であるというとき、この確実さとは永遠という意味を引きずる。起きたことの事実性は否定しえないという意味で、一つの確固たる観念となる。観念となるのであって、事実として固定した「過去世界」なるものになるわけではないだろう。

 ただ、過去を単に想像であると言ってしまうと、普通の感覚では可変的であるように思われてしまう。そうではないとしたら、過去の時点で、その現在すなわち同時刻のことを正確に把握していなかった。だが過去が現在に移行するのはそのものであって人は介在しない。あるいは介在していた場合でも、その介在に幅があるわけではない。つまり固定的であると考える。これで足りるだろうか。いかにも心もとない。

 因果関係の可変性をもたらすものが人間である、あるいは最低でも生物であるとしたら、地球が誕生する前は完全に決定論的であったのか。偶然という要素は入れない。偶然は決定論を通すための一つの言い訳であると思う。

 事実はしかし、そこにあるだけで永遠なのである。なぜなら「現在」だけが永遠なのだから。しかし過去が確定して存在したということをなくして、現在だけを実在足らしめうるか。確定とは理論的である。確定していないということもできるだろうか。それも理論だから。過去の可変性は、しかしどこか受け入れがたいと感じる。それはもしかすると理論の前提という意味での固定だろうか。理論という枠組みで考えると、前提ももちろん動かせる気がする。過去はそのような意味での自由はなさそうだ。したがって、通常の意味での理論よりは根源的ではあるが、しかしやはりその形態に属するもの。思考がそこから発するところのもの。これでよいだろうか。

 もしこれで不満に感じるとしたら、足りないのは何の要素か。意識の全体性?

 アリストテレス参照。なぜなら彼は因果関係を四種類に分類した。現代は科学が支持する一つだけになっている。

 科学の式が過去と未来に対し対称的であること。現実がそうなっていることではない。当たり前の指摘のようだが、それは想像力の内部にしか存在しないということで、同じということ。その意味で、正確であるのは現在のみである。この正確さは原理的という意味であって、実現はできないが。つまり人がたびたび口にする確実性とは、いかに理論に写し取ることができるかという意味になるから。

 そうなのだろうか? もちろん一段階挟むことはできる。意識に写し取る。いや、それだとまた二重写し理論のわなにはまる。やはり理論に写せるかというところで止めないといけないか。