そこにポンと一つの単語を置いただけで詩的な雰囲気が出せてしまうと思われる言葉遣いが嫌いだ。

 たとえば「紡ぐ」。紡ぐのは糸だけで十分だ。言葉を紡ぐ、物語を紡ぐ。これらが、非常に居心地が悪い。せめて物語の糸を紡ぐ、という程度に軟着陸してもらえないか。いや、これはおさまりが悪い表現で、それはそれで問題だが。

瞳を閉じる。お前はイモリかよと思ってしまう。自分で自分の瞳は見えないから、閉じるのは目であり、譲歩して瞼である。サザンの曲と、松本隆が松田聖子に書いた詞には瞳が出るが、あれはわざと書いたのだろうと思われる。だからまあ良い。ユーミンはしっかり「瞼を閉じる」で納めている。正確な語感を持っていると感じた。

 無機物を「たち」で呼ぶこと。楽曲たち、作品たち。気持ちが悪い。ヒューマニズムのアピール感が嫌だ。何とか同志と漢字で書くこと。隣同士。S極N局同士。同志は文字通り志を同じゅうするということであって、外面的なひとくくりにはそぐわない。活動家グループみたいでいやだ。

 確信犯的はなぜか偉そうに感じてしまう。立ち位置とかいう言葉も舞台じゃないんだから嫌いだ。

 どうでもいいこと書いているが、森鴎外のある小説に、好きな文字だったか言葉だったかを言うというのがあって、樫が一番好きというよくわからないことが書いてあったのをなぜか思い出して、思い出すとか言っている割には題名も文字か言葉(単語?)かも忘れているのだが、自分は好きな言葉ってあるのかなあと考えてみたが、思いつかない。愛とか友情とか努力とかはあり得ない、好きな言葉はと訊かれたらきっとST連荘とかラオウ昇天とか答えそうだが、それは本当に好きだからではなく、しょうもないことをこたえたいだけなんだろう。まじめに考えだしたら、自分は嫌いなことから入る人間で、要するにネガティブなことが性に合うのだ。

 われながらよくもこんな無駄なことを本日は書いてしまったものだ。