主観的ということを強調する理屈を述べようとすると、どうしても躊躇する。たとえば内観の性質を外的な情報の集合で表現することはできない。こう書いてしまって、これだけで十分納得する人と、全く合理的ではないと思う人がいる。だからこれは理論として表現するべきことなのか、戦略として正しいのかは疑問だろう。これは以前ならア・プリオリな問題と見られており、したがってそれ自体をどうこうするより、論拠として相手を反駁するための足掛かりだった。つまり弁論術の問題だった。

 例えばクオリアという概念が盛んに言われるが、それが切り札になるのかどうか、私は疑問に思っている。クオリアとは物の質感のことで、これがあるから唯物主義あるいは実証的態度は間違っている、という論じ方になる。私はジョン・サール(Mind、「心の哲学」)に倣って、クオリアは唯物論では説明できないと自然に考えてしまうし、反唯物論の有効な証拠とみなす人は多い。しかし一部の脳科学者は脳の中にいかにしてクオリアが生じるかという問題提起としてとらえる。すなわち、相手を説得はできないということだ。どちらの側も自分の問題意識の中で考えてしまう。

 クワインの有名な論文(Two Dogmas of Empiricism、「経験主義の二つのドグマ」)によって、それ以降人々がア・プリオリな真理というものに無条件で頼ることができにくくなったと言われる。真理はア・プリオリなもの、つまり先天的にあり問答無用に正しいことと、ア・ポステオリつまり経験論的に正しいとされることの違いがあるとされてきた。これはカントが言い出したことだ。問答無用に正しいこととは、わかりやすい典型的な例は論理学と数学だろう。それらについては、クワインよりも前に、十分に疑問は出されていた。「哲学探究」第百四十三節には次のような例がある。1000までの自然数をある生徒に覚えさせる。十分理解したことを確認したうえで、「では1000からはプラス2の数列を続けたまえ」と命じる。すると生徒は「1004,1008,1012,1016……」と書き出してしまう。間違いだと指摘すると、「え? これが正しいのではないですか?」と困惑されるという話だ。もちろんウィトゲンシュタインは彼が間違っているとは言わない。理解するということはこういうことだというのである。

 もちろんこの例に、私は少し抵抗を感じる。その抵抗は、自分が親しんできた習慣との食い違いというところにあるのだと、たぶんウィトゲンシュタインは言いたいのだろう。つまり、問答無用の真理と思えることも、習慣づけられているだけかもしれない。

 何一つ確実な根拠を持たないというところまで後退することは、だれにもできないのだろう。それでも、どちらかを根拠としたうえで、それがどういう帰結をもたらすかという結果から、態度を決めることはできるのかもしれない。

もし内的な側からの十分な表現が可能なら、例えば独我論は簡単に反駁できていただろうと考えてみる。これが現在に至るまで達成されていないというのは、たぶん哲学者が無能だからでも哲学という学問が役立たずだからでもない。達成できていないから、その逆である唯物論が正しい、という論法が一見正しく見えるとしても。

 では科学者側からの、すなわち唯物論の提案はどうなのか。例えばテューリングテストという思考実験がある。AIか人であるかを隠したうえで、試験者と会話をかわし、判別できないほど見事に会話が成立するならそのAIは意識を持つとみなすべきである、という考え方だ。念を入れて数え上げるつもりはないが、単純に考えるだけでも、意識を持つと言い切れるであろう、生まれて間もない子供や、あるいは犬猫は、このテストに受かる見込みはないが、その反面これを通過するプログラムは組めそうではないか。また、これは試験者の感情移入の度合いを測っているだけではないか。その他、いくつもの反論がすぐに浮かぶ。

 この思考実験が間違っているとしても、それは内観主義の正しさを証明はしない。これが正解だ。テューリングテストが不十分と私に感じられるのは、人間の意識とAIが同じ構造であることを暗黙の裡に前提しているからであり、逆にこれを正しいと思う人には同じ前提が肯定的に働くのだろう。

なお、かの思考実験の考案者、アラン・テューリングは超能力に共感するところがあったという。それならば最初から懐疑論に陥る道はないのだから、単純な試験で意識の存在が確認できると思ったことに整合性はあるわけで、不思議ではなくなる。プログラムの存在が、そもそも意識があるということの目に見える形での証拠なのだかから、単純なテストで、妥当なレベルのプログラムの存在が確認できれば意識はあるということになる。ただし、こういいなおすと、今度は正しいと思っている側も何だか疑わしさを抱いてしまうかもしれない。

 要するに、これもお互いにとって論点がずれているタイプのパズルなのだ。