ビッグバンという、昔にさかのぼるうえでの時間の区切り、そしてビッグクランチあるいはエントロピー増大による終末という未来での区切りは、人間の思考の区切りとはならない。その向こう側はどうかと、必ず考えずにはおれない。 もし時間に終わりと始まりがあるなら、すべてが宙に浮いてしまう。なぜすでに時間が終わっていないのか。この瞬間にも時間が進行している理由は何なのか。むしろすべてが無であるべきなのに、あるということは、したがってあるという事実は、永遠に残るのだと、私たちは考える。なぜそう考えるのか。始めと終わりがあるかのように考えるということは、それを一挙に把握する(つもりになる)ということである。もし時間の成分を時間に沿った形ではなく、このように一種の空間化、あるいは図形化というか、そういう形で考えるとしたら、それはもう時間の性質は持っていない。時間の性質を持たない時間の概念とはいかなるものかというと、無であるか、もう一つの極論に振って、永遠であるかということになってしまうのではないか。時間について論じているのだから、無ではないとしたら永遠と言うしかない。これは、何か意味のないことを書いているように思うかもしれないが、実際のところ、時間について考察した何割かの人は、時間はないと言っている。つまり無であると結論した。もっとも著名なのはマクタガートだろうか。

 ここで永遠とは、普通に流れている、その流れが永遠に続くという意味ではない。例えば過去の出来事が、そういう動かせない事実としては永遠に残るという意味だ。

 そしてこの意味での永遠という結論を出しているのは、実は科学的思考の人たちであると思う。なぜなら科学的な思考では時間は可逆的である。それはつまり、私たちの目の前にはないとしても、もう一度出会うことができる。時間をさかのぼることは理論上では可能であるとしたら、それはいつでも訪れることのできる場所として、しっかり存在しているということである。「過去の事実は、そうであったこととして、確定した事実としては永遠にそのとおりである」というぼんやりとした記述(これは心の中の確信事項だからぼんやりしている)と、科学における、理論上は可逆的であるという事実は、同じものを支持している。

 時間に始まりと終わりがあるということは、時間そのものがないことに等しい。なぜならその場合、私のいる場所がどうして時間の外にあるのではないのかがわからないのだから。これは、無意味な反問にはならないと思う。

 時間が物質に付き添っているということはこれへの反論にはならない。私が私でなければ物質である必要もなく、したがって時間にかかわる理由もない。ここでもやはりすべてが無の状態でもあり得る。以上のことを逆に言えば、時間が存在するためにはそれは無限でなければならない。

 先にあげたマクタガートの意見は、時間はないという結論だった。根は同じだ。彼は時間をいったん永遠化(固定化と言うべきか)したうえで、改めてそこに矛盾があるという。これは一応解説する必要があるかもしれないか。