メイヤスーの思想について、これから先の思考に必要な、ほんの僅かばかりの批判を述べておきたい。

 いちばんの問題と思うのは、メイヤスーが科学を信じる理由が、それが数学をベースにしていると彼が感じているからだ。つまり数学的記述こそが、いわば物自体に到達する手段であるという先入観がある。これはデカルトが対象の本質を数値化できるもの、つまり計量化可能性に置いた事に通じる。科学は理論であり、数々の数式からなっている。これは普通の認識なのかもしれない。でも完全に正しいわけではない。科学はあくまで描写でありモデル化である。それをより細かく、詳しく述べるために数量化するということは、人の側の事情であって、世界の側の事実ではない。気取った言い方をするなら、認識論の枠内で語れる内容であって、決して存在論にはならない。メイヤスーは認識論が優先される近代哲学の容態を憂慮しているが、決定的に認識論的な語り方をしている。

 いかなる主観によっても存在の絶対性に到達する、と私は思う。何故なら、主観の側が世界を見るように、世界の側も(比喩的な意味で)主観を見るからだ。カントが間違っているのは、彼のいわゆるヌーメノン(人間の到達しえない存在の核心、つまりこれが物自体)が未来の、あるいは想像上の視点をも巻き込む限り、神の視点でも到達不可能になってしまうからだろう。つまりそれは宇宙の全体性(=神)をもってしても存在に到達できないということで、最初から矛盾している概念なのだから。

 その意味で、カント以降の哲学に対する批判はある程度メイヤスーの言う通りかもしれない。しかし、その向こう側を探るのではなく、カント哲学の枠組みを全く無視してしまうことが唯一の対処法だと思われる。メイヤスーは、いろいろ述べているが、要するにカントの枠組みを受け入れてしまって、改めてその欠点を応急措置的に救おうとしているように見える。

 また、数学とは、特殊な言語活動であり、その意味で限りなく主観的な行為なのだ。日常的な活動にとっては最良の武器であろうが、言語である以上、これによって組み立てられた理論はすべてモデルに過ぎない。だから、客観の向こう側に達するために数学的手法に頼るのは本末転倒ではないか。この点で、科学が数学的記法に傾くことを誤解する向きが多いが、それは主観と客観を対立概念と間違って考えているからではないだろうか。主観と客観は同じ方向に存在する。だからいかなる主観も存在の絶対性に到達可能なのだと私は思う。つまり石ころは石ころだ。質量がこれこれ、形がこう、石質はかくかく、そういう詳しい分析は、より深く主観的に見ているという以上の意味はない。いや、ないことはなくて、他人と共有しやすい知識に言い換えることができる。それは間主観性という名の疑似客観化だろう。純粋数学は純粋な言語活動であり、世界の形式を数学的に述べることはすなわち主観を突き詰める行為にしかなり得ない。

 メイヤスーの哲学は言語の暴走ではなかろうか。人間主義にかえって陥っているのだ。石ころが石ころであることは人だけではなく猫でも芋虫でも把握する。要するにそこに間主観性が成立しているとは言えまいか。だったら人が存在に到達するルートは、たぶん計量化可能性ではない。