私は科学の最先端の部分はことごとく間違っていると思うので、これからの哲学なり、あるいは宗教的な観点での希望を展開するのであれば、相対論も量子論も進化論も間違っているという前提で始めるべきだと信じている。もちろん常識にはなっていない。

 と、そう書いたところで、近年とても売れ筋になった哲学書が、かなり近い結論を出していることに気づいた。カンタン・メイヤスーの「有限性の後で」という、思弁的実在論の一冊だ。ただし、私は科学が間違っているというのだが、メイヤスーのほうは、実に込み入った手続きで科学的な言論が限定的であることを論証する(できていないと私は思うが、それはそれとして)。

 正直なところ、私はあまり理解できなかった。本心を言えば、理解できる気になれるほうがおかしいという気持ちだが、大筋のところだけでも説明をしなければなるまい。ただし、理解できないと私が言うときは、いつものことだが、なぜこんな主張をするのかがよくわからないということであって、書いてあることがまるでちんぷんかんぷんであるということとは少し違う。理解できていると言うのは図々しいかなと、いつも思うのだ。例えば、三位一体説とは、天の父とイエスと聖霊という三つの異なる存在が一体として一つの神であるということだ。誰にでもわかる。文の意味はわかるけれど、わからないといえばわからない。これを理解していると言ってしまうことは、誰も躊躇するのではないか。

 この本はまず「相関主義」という概念から始まる。私たちは直に世界の実在にアクセスしているという立場を素朴実在論という。それに対して、カント以降、世界が世界として感知されるのは、私たちがそれをそういうものとして認識するからであるという意見が主流となる。それを相関主義とメイヤスーは呼ぶ。

 人の思考と世界との相関関係があるのであって、世界そのものがあるのではない。つまり私たちが存在しなければ、世界はこのようなものとして開示されない。ここから、さらに「祖先以前性」という考えが導かれる。世界が、人の思考によって現状あるような形であるとしたら、人間の思考が存在する前のことは、人の思考では正確に述べえない(この理屈が私にはよくわからない)。

 メイヤスーはここで自然科学に特権的な地位を認め、祖先以前性にアクセス可能な唯一の方法という。例えば、地球が誕生して45億年経つということは科学だから言える。その特権の由来は、数学にある。すなわち世界の認識は数学によってのみ可能となる(このあたりの理論展開が私にはまるで正当性を感じられないので、理解できないという言い方をした)。

 ここでメイヤスーは偶然性のみが絶対であるという定理にたどり着く。なぜなら、たとえば世界の力のあり方がF=maであることは、偶然というほかはなく、そこから先は数学によって証明することはできないからだ。すなわち、世界が現にこうであることの最奥の根拠は。数学的に言えば偶然でしかあり得ない。続いてカントールの実無限集合の理論なども援用しながら、明日にでも自然法則ががらりと変わり、究極のカオスが現出するかもしれないということを「証明」する。世界の秩序が相関的すなわち人間の認識に統握されているなら、人間のいない世界では完全な無秩序ということも可能になる。

 これだけではメイヤスーの意図は十分明らかではないが、もう一つの論文「亡霊のジレンマ」を参照することで驚くべき全体像がうかがい知れる。ここで彼はとてもセンチメンタルな叙述を展開している。無残な死を遂げた、すでにこの世にない人をどう救済するか。それが問題だ。その人たちを放置したことで、神の全能は否定される。無能な神とは、語義矛盾である。したがって合理主義者なら無神論者になるしかないが、それだと不遇な人は救われないままに終わる。これを亡霊のジレンマと呼ぶのだ。

 この簡潔な要約だけからでも、様々な疑問が浮かぶだろうが、それはさておき、メイヤスーは驚くべき解決を用意しているらしい。偶然性が最高の審級であるなら、法則はとつぜん変わり得る、宇宙はそれまでとは根本的に違ったものになり得る、したがって神も出現し得る。

 この神学的託宣はもちろん「偶然性の後で」を受けての「理論的帰結」である。とするとあの主著は、神の登場を準備するためのものだったのだろうか。この成り行きを面白いと思う人もあるかもしれない。私としては、こういう悪い冗談に付き合わされるのはごめんこうむりたい。トマス・アクィナスを古典として面白がる人でも、真実性をまともに受け取りはしない、と思うがどうだろう。ただ、これが二十一世紀で最も評判をとった哲学書なのだった。