今日江戸川乱歩を褒めるのは、自分に対しいささかの無理を強いるものであると思う。昔惑溺するほど読みふけった時の印象があまりに鮮やかで、今乱歩の作品に批判的な目を向けるのは自分の過去の一時期を葬り去るような寂しさを覚えるのだが、さりとて感銘を新たにしようと再読すると、作品の手軽な薄っぺらさに幻滅を覚えるのである。もちろん一部の傑作を例外とする。

 もちろん通俗作家であり、中期の長編など――それがまた映像化されて人気があるわけだが――杜撰であり手抜きである。本人がそう評価している。これらを読むことなく人生を過ごしたとしても、人生において多大な損失とは言えない。

 彼の作品の本質は、あくまで私の惹かれた部分だが、怠惰な人間が、怠惰なままに人生を押し渡ろうとしたその軌跡ではないか。私はこれを単純に貶めているのではない。これはほかにはない十分な魅力ではないかと思っている。

 探偵小説への志向だとか、怪奇趣味、エログロ表現などは、彼の表看板ではあるが、概して底が浅く軽薄なものである。読者が怖気をふるうことなどまずはない。大衆小説らしく、適度の心地よい残虐さが描いてある。乱歩自身があるところで、現実の犯罪に何の興味もない、ただ小説上の犯罪のみに興味をひかれると語っている。大衆小説を書くことで、あるいは読むことで解消される残虐趣味ならば非常に健全と言える。

 怠惰とは、ある時期日本文学が共有していた空気である。もちろん俗世間の人は、成功した芸術家を尊敬するが、名のない連中、挫折したみじめな連中を怠け者としてつまはじきしてきた。それはいつの時代でも変わりない。だが作家の側も、日々の仕事に齷齪しないことが才能の卓越の証であるとしていたわけである。特権でもあった。それは苦しい言い訳かもしれないが、大正から昭和にかけて、そういう流れがあって、乱歩の作品はそこからスタートしている。だから明智も最初期は下宿屋でごろごろしている得体のしれぬ無頼漢である。また探偵される犯人役も、どいつもこいつも暇を持て余して好奇心だけで罪に走るような連中ばかりだった。

 私は、これにやられたのだ。つまり怠け者の天国である。ストーリーではなく、全体の醸すそういう雰囲気で読んだのだった。

 乱歩の説得力はどちらかというと童話に近い単純化された構図にあるのではないか。それが昨日書いたこととのつながりだ。彼にはいわゆる翻案ものと言われる作品が少なからずある。「エンジェル家の殺人」(ロジャー・スカーレット)を下敷きにした「三角館の殺人」、「赤毛のレドメイン家」(イーデン・フィルポッツ)による「緑衣の鬼」、小さなものではドイツの通俗作家エルクマン=シャトリアンの「見えない目」に想を得たと思われる、というかほぼ同じ筋の「目羅博士」などがある。

 いずれの場合にも、乱歩による書き直しは、原作よりも簡潔になっている。この点が彼の創作のあり方を考えさせる。「幽霊塔」に至っては、黒岩涙香の同題名の翻案小説が元なのだが、そもそも涙香の本がMrs. Alice Muriel WilliamsonのA Woman in Grey「灰色の(服をまとった)女」を適当に切り貼りした作品である。それをさらにさらっと書いている。余談だが、こうも世代ごとに書き直されるだけの面白さはあるわけで、もし触れるならおすすめはコミックの「幽麗塔」(乃木坂太郎)だ。かなり大胆に改変されているが、それがあることで現代的になっている。

これらの中でいちばん乱歩らしい書き直しは「緑衣の鬼」になるかと思う。フィルポッツの「レドメイン家」は、いかにもイギリス作家らしく、伝統的な小説作法に沿った、しっかりした人物造形を心掛けており、美しい自然描写を盛り込んである。もともとがダートムア地方を舞台とするいわゆる「田園小説」の系譜に属する人であった。晩年に突然探偵小説を書いた。

 ところで乱歩がそこから省略してしまったのは、自然描写と人物の複雑な性格付けなのである。自然描写のほうは舞台を日本に移す都合上は仕方がないのだが、その代わりに持ってきたのが東京とは書いてあるが、どことも取れるような都会、乱歩の頭の中にだけ存在する、居心地のよいあのいつもの空間ということになる。