トルストイとドストエフスキーを比べると、どうしてもトルストイの味方をしたくなる。それは彼が謎めかした書き方をしていないからである。ドストエフスキーは読者に嘘をついていると思う。

 私たちは文章を、現実を写し取ったものとみなす。叙述トリックは、したがってアンフェアであるとかどうとかいう以前に、読者を愚弄したものである。たとえば四十歳の男が行った犯行を、彼の年齢その他に言及せず、二十歳の息子が犯したことのように書く。これが正当であると言ってのけるためには、文章がそれだけで自立していなくてはならない。だが私たちは記述の向こうに現象があるとみなしているのである。

 人は、赤ずきんちゃんや桃太郎の話を読むとき、それが現実離れしていることをとがめない。中途半端に現実的であることは、むしろ興趣を損なう。戯画的に誇張され、極端化されることで面白いと思えるようになる。

 これらの単純さの中に潜む味わいを、深層心理や民俗学、その他もろもろの神秘主義的思想で解説するのは、実につまらない作業に思われる。そういうものからきっぱり隔絶した、純粋な遊びだから興味をひかれる。

 オイディプス王は神託に逆らおうとして、結局はその預言に通り父を弑し母をめとってしまう。いったいこの物語に心からの衝撃を受ける人がいるだろうか。表面のセンセーショナルな部分ではなく、神託通りに事が否応なく進んでしまうということにだ。私は少なくとも、オイディプスの行動に何一つ共感しなかったし(それは時代が違うから仕方がないという意見もあるかもしれないが)つまらない筋立てと感じた。しかし一方、あらかじめ定まった運命に彼を追い込んでゆくやり方に、パズルを解くような面白さがあるのだろうということは認める。

 エディプスコンプレックスという言葉の発明者であるフロイトは、もしかしたら何かしらの衝撃を受けたのかもしれない。そうではなく他人事のように見ていた気もするが、とりあえず決めつけはよくない。しかしどちらにしてもそれは彼の個人的な感情である。もしかしたら心理的な隠喩を読み解くという、私とは別のスタンスからのパズル解きかもしれない。「オイディプス王」が一つの祭礼として上演されていたということは、たとえそれが半分本当としても、ギリシア人たちが知的遊戯としてそれを楽しんだということと矛盾はしない。現代人がミステリ小説を読む如くに、仮面劇を純粋に空想的なドラマとして観ていたということも大いにあり得るわけである。神話や運命を愚直に信じていたと言い切るのは早計だ。

 神話、童話、民話の類が人の心の深層に訴えかける力を持つという人たちの理論は、常にそれが他人事であるために不毛だ。つまり神話を事実と信じるのは遠い過去の人たちである。そうでなければ、論者以外の、おそらくは知的に一段劣る現代人である。心の中のある状態を把握するということは、とりもなおさずそこから脱出する自由を意味するわけであるから、論者はその束縛からは免れているのだ。フロイトがなぜかクライアント本人よりもその心を知り尽くしているかのように語る構図はまさにこれだろう。