今はむかし武蔵の国北根といふところに、さあらぬくらいにありはべるさぶらいのむべなく学問好む男ありける。名を与助という。苗字はない。三代前に許されたと聞いたが、今はおとうだけが誇りにしている。不断には誰も気にしていない。与助と書いたが、本当は余助なのであった。与える、助けるというありがたい名ではなく、あまりものの子という皮肉であった。だがよすけと謂えばよいので、当人には関係がないことだった。

 ある朝まだき夢が茜色に染まった。竜が炎を吹いているかと見えた。はて、夢に色がつくとは玄妙な、と思うや目覚めた。しかし竜ではなく樹々の向こうに酸漿のような色が広がっているのであった。 

 下草が体を刺す。痛みの原因はそれだけではなかろう。身体中がぎしぎしと不愉快な軋りを上げる。不自然な姿勢で寝ていたからだろうか。そのほかにも違和感。少し手を動かすとざわりとした。悲鳴を上げなかったのは、まだこれが夢の続きか起きての現実か決めかねていたからであって、そうして彼にはその決定権が自分にあるとでも言わんばかりに判断力をゆるりと動かした。霜が降りているらしい。はて、危うく凍え死するところであったか。でも生きておる。ふふと笑まずにおれなかった。季節の移ろいに鈍感であったことはいつも心にかかっていた。

 道外れの堂の陰に寝ていた。よんべ、中に押し入って寒さを防ぐつもりであった。しかし錠が下りていた。何か不思議な仕組みのようで外すことが難しかった。せんかたなしにせめてもとその壁が自分を守ってくれるとでもいうように背を押し付けて横になったのであった。落ち葉を払い払いしながら道に出てくる。まだぼんやりしている。赤茶けた細道はどこへ続くのか。自分がどちらから来たのかさえ忘れていた。陽の位置を確かめようとしたがとたんに頭がくらくらして空が灰色にゆがんだ。

 目を落とすと、道の上を鶺鴒が鮮やかな白を引いて走っている。その方向に進もうと思った。山は遠くもない。緩やかな稜線が薄く照っていた。さすがに雪はない。しかし今朝の寒さを思うと、山中の道はもっと冷えるのかもしれない。

ただ、あそこを超えたところには七道駅路が通っているはずだ。天武の大君が命じた街道である。遥か(みやこ)に通じている。南に下っても東海道があるはずだが、少し遠いかもしれない。京であれば(あれ)(ざえ)を生かす仕事もあるかもしれないというかすかな憧れはあった。

 ふと京の風景を念じてみようとするが、見たことはなくただ蜃気楼のように危うげでいくつかの色彩が躍るような、貧困な映像が浮かんでは消える。そこに行き着くのは無理だと言われているようだった。もちろんそんな決心は初めからないのである。

 七道駅路。彼の周りには、そんな古のことを知る者はいない。そう得意げに思って、この知識が招いたことだったと苦笑いが浮かぶ。お前は余計なことばかり訳知りに言って、現実の仕事にとんと疎い。おとうのみならず、三人の兄者たちまでが吾を痴れ者扱いした。おかあだけは、時にかばってくれた気がする。露骨に味方をするとおかあまでが標的になりそうでほどほどにしてくれと、むしろ心苦しいこともあったが、ひょっとするとそれは取り越し苦労というもので、広くもない家中にもめごとがあることがおかあとして居心地が悪かっただけかもしれないと、ふと思う。

「まあそれでもありがたいこんだ。ほんとうに、おかあとは善きものよなあ」

 無理にいい聞かせて、次第に頭の整理がついてきた。そうだ、俺は家をおん出てきたんだ。どうも身の置き所がなくて。

 細道をとぼとぼと行く。次の戸村(むら)はどのくらいか。とりあえずそこに行き着けば何とかなる気がする。食物と水くらいは乞えるだろう。その次は……その次は? 次はあるのか。そうしてつないでゆけばいずれ京につくのか。おのれの浅はかさを笑い飛ばしたくなる。無理だろう。そこまで命は続かないだろう。いや、でも全国を物乞いで行脚した尊い聖があったなあ。あれは誰だっけ。誰だっけ……。思い出せないことが悔しくて、考え事はやめようと思った。

 向かう山間に細く向かう道をめで辿っていると、道脇に腰かける小さく丸まった体が見えた。

「ちょいと」

 なるべく目に入れぬようにと真っすぐを見てよぎるところを呼び止められた。なぜそう思ったのかはよくわからない。

「なんでしょう」

「あなた様もこの道を行かれるのですか」

 いかにも弱弱しい声で言う。

「そのつもりです」

「では私もそちらへ行きます。御同道いたしましょうよ。どうも心細くていけません」

 ずいぶんなれなれしい奴だと思ったが、断る理由もない。彼自身も心なしか頼りなさを感じていた。遠くからはうらぶれた姿に見えて年寄かとも思ったが、こうして顔を直視すると彼よりも若いかもしれない。僧籍を思わせる雰囲気をまとうているが、どこがそうなのかと問われるとよくわからぬ。手を貸したくなるほど弱弱しく立ち上がった。足を妙に擦るような歩き方をした。

「脚がお弱いのか?」

 訊くと、にっと笑って、

「そういうわけではありません。この草鞋は昨日手に入れたばかりでして、ちょっと馴らしておこうと思うたのです」

 よくわからぬという顔をしてしまったのかもしれない。続けて、

「まだ土と小砂利が底に十分ついておりませんでな。あなた、草鞋の持ちはどんだけ稲わらの網目に砂利が混じって底を固くするかがこつですからね」

 何か、彼の実生活への不案内ぶりが見透かされたような言い方だったが、考えすぎだろうとも思った。

 里程を二つ超えた。山が近くなった。男が言う。

「まあ、里まで行きましょうや。そこまで行けば何とかなります」

「その先は……」

「一日あれば山中の戸村までたどり着けますね。そしたら、七道駅路まではすぐつながるでしょう」

「行かれたことがおありで?」

 それには答えず、

「京に行ってみとうはございますなあ。なんといっても」続きを言いかけて口をつぐむ。

 烏が妙にのんきな声で鳴く。里の気配はいまだにない。かすみがかった空がそのまま地上に降りてきたかのような空気だった。

「まあ考えてもみてください、あなた、京には皆あこがれる、しかし誰も行きつかぬのです。まことに奇妙ですなあ。なにかそこにとてつもない人生の秘密が待ち構えている気がしておって、こうしててくてくとぼとぼと歩んで行くわけですが、結句たどり着かぬわけですわなあ。人生のむなしさの究極の姿ですなあ」

「たどり着かんのですか?」

 すると男は底が抜けたように無表情な顔をこちらに向けて、

「そりゃあなた、みんないつかは死にますからね。着いた者もあるという噂ですが、噂は噂です。まあそんなことを申したら、みんないつか死ぬということも噂にすぎませんが」

 禅問答みたいなことを言うやつだと思った。

「実は、私は先ほど(やす)んでいる前まで、逆に歩いておったのです。京に到着するのが怖くて。いや、それは嘘です。山を越えた先は上州で、またその先は信州です。たぶん私のひ弱な体力では走破はかなわぬでしょうね。そうでなくとも、夜盗か狼かに取り殺されるか、あるいは民草のつれなさに心がくじけるか。まあいずれにしてもそこを超えられません。

 でもまた不思議なもので、ある程度引き返したら、来た道をもう一度辿りなおしたくなるのですよ。魔に憑かれているかのように」

「そういうものですか」

「そういうものです。あれ? あなたは新参者ですか」

「よくわからないのです。一度通った道のような気もするのですが」

「ははあ。いずれわかりますよ。まあ見ていなさい。ここを通る人は皆、人生をかけて京に上がろうとして引き返し、そしてまた逆を行くことの繰り返し。何かを恐れておるのですかなあ」

「何を?」

 そう口に出す前に「何を、とお思いかもしれません。いや、私にもわかりません。そうですなあ、ここで道に迷っている分にはまだ救いがあるということでしたな。七道駅路にまで踏み込んでしまうと、そうもゆきません。考えてもみてください、天武天皇の御威光(みいつ)と申したところで、現代まで生きているとは限りません。ほとんど知る人もいない。その話が残っているというだけ。整備がなおざりにされ、道は限りなく草深い幽邃のうちにあり、まるで冥道を往くが如しと聞き及びます。京どころか魔界に通じているという口さがない噂まで立つ始末で。何とも厄介でしょう?」

「そうですねえ……」

「私はかろうじて二巡前のことまで記憶しております。しかしいずれ、何度往復したかも忘れてしまうでしょう。ましてや、七道駅路まで迷い込んでしまうと、そう、あえて迷い込むと言ってしまいましょう、そこから出ることも叶わず、永遠に路上でさまよい続けることになるのです」

 思わず同道者の顔を見る。

「まああくまでそういう話です。私も、確かめたわけではないのでね。確かめたいとも思いませんが、しかし確かめる羽目になるのかもしれません」

 薄く皮肉に笑って一息ついて、「いずれ人は死ぬものです。気にしても始まりません。さあ、里が見えました」

 往く手の、山の端のなだらかな登りにいくつかの小屋めいたものが散在していた。人数の割に、もっともさほどの人がいるわけではなく、ひたひたと道を歩いてきた印象からすると意外だと思う程度であったが、活気のない、静まり返った、不思議な雰囲気を持った場所だ。

「さあて、ここからはおのがじし勝手の行動とまいりましょう。私はどこかで飲食を乞い、寝床を確保しますよ」

「そのさきは?」

「先と申しますと?」

「予定ですかねえ」

「さあ。はぐらかすわけではありません。一晩寝たら、きっと私にもわからなくなるのですよ。あなたに行き逢って、来た道を戻ってしまいました。明日になったら。また戻るかもしれない。踏み迷う覚悟ができているかもしれない。この動揺にあなたを巻き込むことはしたくない」

 そこで別れた。直後に、しまったと思った。自分のいでたちは沙門とはとても見えぬ。それかと言って、旅の物乞いは経験がないからうまく行くと思えぬ。行き詰まれば命惜しさもあるから我を捨てて農家の戸を叩くこともするだろうが、まだそこまでの覚悟がない。一度だけでも教えを乞うておくべきだった、または立ち会わせて見ておくべきだった。そして男の行方を向くと、もうそこに姿はなかった……。

 仕方ないか。里を見る。おん出てきた場所とあまり変わらぬ。懐かしささえある。鶏がいる。大人たちが何人か、しかし遠くの方にいる。子供の姿はない。いくつかの戸口の前を過ぎるが、気配が感じられない。

 不思議と腹は空いてないのだ。しかしいずれ陽が落ちるだろう。水も欲しくなるかもしれない。ここまでの道中で、川らしきものは見えなかった。それは気がかりだ。

 思い切って土間に踏み入った。

「すんません」と呼ばわった。土埃のにおいが漂う」薄暗い奥から、「おお。来よったか。まあ上がれ」とくぐもった、しかし聞き覚えのあるような声がかかる。

 狭くみすぼらしい板縁の上におかあがちょこなんと座っていた。そういうことか。不思議とは思わなかった。

「疲れたろ、まあなんぞ淹れてやろう」

 よっこいしょと立って、隅にある一抱えほどの(くど)に鉢を乗せた。豆をいくつか放り込んでしばらく煮ていた。それを黙って見守る。

「ほれ、でけた」

 二つの碗に注いで板縁に置く。

「ずいぶん顔が青い。なんか、妙な気苦労があったか」

 ゆったり笑む。

「まあ、たいしたことはない。おかあの気煩いになるようなことはせんよ」

「そうだろね」

 言いたいことはいくつかあったが、いつの間にか消えていた。もうわかっている。迷っていただけだ。

「まさかなあ。お前が先だったとはなあ。思いもかけぬことだった」

「吾が先に死んでいたんだっけ?」

 そうおかあと笑いあう。