コペルニクスの閉じた宇宙観に対して、無限の広さを容認できたニュートンが却って、外側からも中心からも計測できぬはずの空間の任意の点に、他と取り換えの利かぬ位置を与えたというのは、むしろ逆であるべきではないか。それは単に数学上の扱いにくさを克服する手段に過ぎなかったのだろうか。もちろんわざわざ計測する必要はないのであって、静止する、すなわち同じ場所を持続して占めるということに意味を与えればうるさい問題は解決するということだった。日常生活において確かにそれは有意味だ。であれば、それを宇宙全体に広げてしまうことに反対する理由はない。

 ところで、もし科学という文脈のみを考えるなら、コペルニクスもニュートンも、そういうものであるととればよい。しかし人間的な思想という意味で考えなおすなら、彼らがキリスト教をどうとらえたか、宇宙観において妥協した部分はあったのかということは、考慮に値する成分となるだろう。絶対とは正統教義において神にのみ許される属性である。ニュートンの宇宙観に言われる、絶対時空間という呼称は、神を信じなくなった後世の科学者たちが名付けたもので、ニュートン自身の見解ではない。

 コペルニクスが問題にしなかった時間の特殊性がニュートンの後押しをした。時間は後戻りしないし、普通に暮らす分には進み方に緩急の区別がない。いや、それは感じることができるのだが、計測しながら見る限り、当人の気のせい以上のものではないと感じる。したがって何らかの絶対性を仮定してもよさそうだった。

 位置に関する相対性は、地動説を受け入れた時点で、自然に考えを進めて行けばたどり着く観念だが、時間については難しかっただろう。コペルニクスにとって空間は時間と結び合わせることで初めて現実となる。すなわちあの時という定義を背負ったあの場所には戻れないという意味になる。対称性を持つ、可逆的という性質は、無限という性質を獲得する。例えば空間が有限であっても、AからBへ移動し、またAに戻ってこられるということは、このAやBが特殊な場所であることを要求しないということだ。これが空間と呼ばれるもののありきたりの見方だ。つまり有限の閉じた宇宙であっても、無限という、人間の自分勝手なとらえ方と折り合いはつく。

 時間はこれに比して不可逆的だ。したがってこれに無限という属性をねじ込むためには、実際に無限であってくれなければならない。これに加えて、現代では時間の相対性が当然のこととされている、そして私はそれを根本的な間違いと思っている(少なくとも、相対性理論が主張する意味では間違いである)からちょっと問題が入り組むが、とりあえずニュートンの延長上で考えるとするなら、こう言えたはずだ。時間が無限であるとすると、空間の場合と同じことが当てはまる。つまり正しい目盛りを刻むことはできないし、基準となる指標がどこかに立っているわけでもない。位置を確認する便利な機器のない時代の帆船が、陸地の影すら見えない大海原で、しかも厚い雲のせいで星空が観測できない状態に置かれたようなものだ。

 ここでも空間と同じで、内在的な絶対性を設定する試みはあるのだろう。まずは時間の伸び縮みを否定する。そのうえで時間を無に切り込んだ状態、すなわち瞬間に時刻という意味を持たせれば、現前性が客観的に指定できる事実になる。

 あるいは私が絶対性という言葉をことさらあいまいに使おうとしているように読めるかもしれない。それは確かにそうなのだ。ただし不確かなのではなく、初めから二つの意味が含まれていて、単純に切り分けることが難しかった。コペルニクスからアインシュタインまで、絶対性ということは、時間なり空間なりのある単位量を物差しの目盛りとして使った場合に、問題となるような揺れが生じるか否かということに、一見尽きる。この意味は、コペルニクスにとってもし時間が絶対的な存在であったなら、つまり逆流も伸縮もないものなら、せっかくの空間の有限性が無意味になるということだ。これは逆にしか思えないから、理論的とは感じられないだろうが。

 ニュートンにとってある事象の位置は、もしその内容が明らかなら、時間と空間、どちらかの値を決めてやれば一意的にもう一つの性質も決まる性質のものだ。そしてどちらを取っても単位としての正確さに疑いがなかった。そしてもちろんアインシュタインはどちらも基本単位としては正確ではありえないと言った。尊重されるべきは光速度を含む物理法則の個別に適用されるという意味での普遍性であり、実際にそれを一定にするために時空のほうこそゆがむ、というのだ。

 アインシュタインのいうことは根本的に間違っている、とここで繰り返しても未だに賛成者は少ないだろう。ただ、相対論の帰結であるビッグバン宇宙は時間も空間も有限であり、すなわち絶対的な目盛りを割り振ることが可能なものだ。すなわち、最初から相対性など存在しえない形式の理論となっているので、内容と形式における矛盾がある。この言い方はちょっとヘーゲル的でよろしくないか。