だいぶ寄り道が過ぎて趣旨が忘れられてしまいそうだが、輪廻転生があり得ないと主張している。そんなこといまさら言われるまでもないと思うだろうが、現代科学の最先端の思考は輪廻転生を是とする。ただそのつながり具合をあまり人々が意識しないだけのことだ。

 このことから帰結する第一の論点は、ほとんどの科学が根本的な点で間違っているということになるだろう。しかしそれは、人間の生活にとってそこまで重要ではない。人はたぶん、科学は正しく、しかし輪廻はないという考えで十分やっていける。そして科学の、日常の生活にかかわる部分は問題なくうまく働いているので、間違っていないという見方のままで問題はない。科学という用語は、人の思考のあまりにも広い範囲に当てはまる。一部が正しくて一部が間違っているということで、十分に許容できる。間違った理論を「疑似科学」と呼ぶことが、むしろ誤解を招く。それは科学であれば正しいという前提の語りだ。

 ただしその根幹の部分、いや逆に最も表層の部分というべきなのかもしれないが、形而上学であったり存在論であったり人の行く末の考察だったりする部分では、あまりにあからさまに間違っていると思う。まずはビッグバンで宇宙が始まったということはないし、宇宙が熱死に至ることもビッグクランチも訪れない。異次元は存在しない。四次元も二次元もない。

 これは、人の生きがいだとか絶望や希望が大きく変わりえるかもしれないという点で死生観にもかかわる問題となるだろう。ビッグバンを信じることが希望となるのか憂鬱な世界観となるのかは微妙なところだが、一つ言えるのは、宇宙の運命まで言い当てられる人の頭脳はすごいという高揚感はあるのかもしれない。私は、その感覚に乗るよりは、思い上がりだと感じてしまう方だ。

 Eric J. Lernerという人が、Big-Bang Never Happenedという書物で、時間的にも空間的にも閉ざされた宇宙論と開かれた宇宙論は時代の相を反映していると書いている。彼の意見では、悲観論が世を覆う時には閉ざされた宇宙論が主流で、自由を信じるようになると無限に開かれた宇宙論になるというのだ。イオニア期の自然哲学者たちは宇宙を広大無辺と見た。しかしアテネ全盛期以降、閉じた宇宙になる。キリスト教時代はもちろん神が宇宙を作り、そしてその手で滅ぼす。啓蒙主義時代になって再び時空間の無限が戻る。そして二十世紀は人々が絶望し、ビッグバンと熱死に取り囲まれた、救いのない宇宙を信じる……。

 この見取り図はどうもぴんと来ない。キリスト教の文化圏に属さない人間からすると、こじつけのような気もする。もっと単純に、神に成り代わって宇宙の運命を予言(まあここは預言と書かなくてもよいだろう)するくらい、人の傲慢さが行くところまで行ったという解釈が妥当ではないか。

もちろんその前提である、現代科学は輪廻を肯定するという部分に、納得してもらえるかどうかなのだが、現状で望み薄であることはさすがに承知しているつもりだ。そしてまた、輪廻を否定する論拠が、人が主観を持つからであるということも、説得力としては薄いだろう。主観を持つということは、従来AI主義に対して言われてきたこと、意識を持つということ、あるいはクオリアを持つということ、あるいは志向性を持つことの意味などとどう違うのかという話になる。もちろん向いている方向は同じ(唯物論的世界観には意識のこれらの働きを説明し切る理論は用意できないはずであるという見方)だとは思うが、すっきりしない。考え方として、従前のいわゆる意識の哲学で語られたさまざまの論拠は、一応物質世界と意識世界の二分法が先にあって、後からその縫合を狙う理論だと思われるが、主観性をざっくり前提とする一元論的な見方をするべきではないか、ということになる。まず日常的に見ている、何かよくわからない塊としての世界があって、その中で人がもぞもぞと動いて、なんとなくコツがつかめてきたら、あれは物質、これは意識の働きという具合に分類される。これが大変自然な世界観の形成ということになるのではなかろうか。すると、意識と物質の区別は、世間で思われているほど明確ではないかもしれない。

 主観とは世界の中のある特質、ということではなく、この全体を支える何かということになる。クオリアや志向性は世界の持つある特質だ。意識という言葉も、ほとんどがある種の機能の説明に過ぎない。でもそれは、物質である身体の持つ機能と言われてしまうかもしれない。志向性は、脳のある状態を指す言葉であると言われうる。クオリアはもちろん意識の特殊性を指す言葉だったのだが、いつの間にか脳の中にクオリアが生ずるとされている。確かにそれは説明が難しい、厄介な課題ではあるが、むしろ唯物主義によって解決されるべきであるということになっている。

 つまり前提が二元論であって、しかも科学がこれだけ発展しているのだから、物質中心に考えるべきであるという方向に、どうしても引きずられるのだ。ただ、物質というのはあくまでそういう観念に過ぎない。ものは世界の中の一つの対象であり、つまり部分的な特質だ。