孤独を意識して生きる人がこれから増えていくだろう。人はもともと孤独だ。いくつになっても、人間関係を開拓し、築いてゆける人はいるだろうが、そうではないという人もいる。

 その時、なにをよりどころとするか。宗教は古来、その教義ではなく、教団のもたらす人間関係によって人々の救いとなってきた。だから正しいかどうかは実はあまり関係がない。それは否定しがたい事実のように思われる。深く問わないことが慣例であるため、真理に対して少し甘い。真理がそのまま救いとなる理論体系ではないように思う。

 個人的に、いつの時代でも神や仏には半信半疑、というか疑いの心が強い人たちが歴史を作ってきたと思う。それは悪い意味で言うのではない。いないとしてもいるように行動することの価値を認めているということではなかったか。まあ、これは否定されてもよい。

 では科学はどうなのか。これを私は救いという意味で言えば宗教以下の理論であると考える。真実がどう救いに結びつくのかが分明ではなく、そもそも真理ではない。その点で、皮肉ではないが、宗教と実は似ていると思う。科学の真実性に心から心服するわけではないが、おおむね信じているようにふるまいながら社会は維持される。恩恵は確かに多大だ。

 科学への不信というとき、多くの人は温暖化や海洋汚染など、どちらかと言えば行き過ぎた科学、技術的な部分での失敗をまずは考えると思う。私は、科学の基礎が数学的な思考である限り、最も基幹的な部分での間違いが存在すると思っている。自然界や宇宙には点や面は存在しない。しかるに相対性理論や素粒子論はそれらを前提とする。ありえない1次元(線存在)や2次元(厚さのない平面)どころか、4次元空間まで要求する。したがって、おおざっぱな立論としては成立するが、先鋭的であればあるほど、事実と食い違ってくる。つまり、基本的な部分こそが間違っている。

 私はまず宗教の道をふさぎ、科学の道をふさぎたい。なぜなら、そこから出てくる希望は、私には少々疑わしく、かなりの欺瞞が隠れていると思えてしまうからだ。同意は求めない。あくまで自分自身に対する説得だ。それが孤独であるということ。そのうえで、人はなにを希望として持つことができるか。

 宗教は、人はこの世かぎりの存在であることを、現代ならあからさまに否定はしないだろうが、多少の含みを残す。社会であるか人類であるか、あるいは宇宙そのものの中に、生きていたという痕跡を求める。前の二つなら、恐らく宗教は必要ではなく、常識の範囲内で処理できる。

 心のよりどころとしての存在ではあり続けているのかもしれない。私自身は信じたことがないのでよくわからない。歴史的にはもっと強く社会と人とを結びつけていた。しかしそれは人間集団として働いた結果としてそうなっていたのであって、思想内容によってではない。宇宙と魂の連携を論じるのが現代思想としての宗教の役割と言える。だがそれはもはや、十分に人々を説得できるものとはいいがたい、と思う。

科学はどうなのだろう。当たり前だが、基本的に科学は楽観的に未来を描く。それは悪くない。それを信じ、身を投じることをいとわない人たちによって、人類は支えられている。まことに感謝に絶えない。しかし個人においてはどうなのか。遠い未来は明るいとして、それが個人の孤独や苦痛を救えるのか。

 もちろんその信念で満足できるならそれでよいのだ。だがなんとなく私は飽き足らないものを感じる。来るはずのない千年王国、入れる当てのない極楽浄土と同じくらい、手の届かぬ希望に思えてしまう。私の生命が途絶えた後のことで、私の救いとすることは、なんとなくごまかしがあるような気がする。短い人生の内部で完結する何かが必要だ。

 それはたぶん、科学的思考を逆転させた先にある。だって、肉体が滅びれば終わりだと宣言して、冷酷な事実を突き付けておきながら、未来への進歩に慰めを見出せなんて、矛盾だらけの妙な要求ではないか。熱力学の第二法則で世界は徐々に熱平衡状態に向かうという前提で、どこに希望があるのか。現代科学の主張は、「世界は無に還る」なのである。