時間について語ると題しながら、関係ない話ばかりしている。私は、輪廻はないと論じたかったわけだが、そのためには「同一性」について語る必要があると感じたのだ。この場合には自己同一性ということになる。あるものが、そのものであることもアイデンティティだし、自己の一つながりであることの承認もアイデンティティというし、あるいは社会的なステータスもアイデンティティと呼ばれる。このあいまいさは外来語と日本語とでどうニュアンスが変わるのか、そこまではちょっとわからない。今言い換えたように(同一性、自己同一性、社会的ステータス)、それぞれに違う言葉を本来なら日本語は与えられるわけで、英語の欠陥の一つかもしれないが、そこまで論じてよいものか。もしかしたら日本語で単一の言葉も英語では違う表現に分かれるのかもしれない。すぐには思いつかないが。

 こんなことを書くのも、二十世紀哲学の大きな問題の一つは、翻訳可能性だったからだ。正確な翻訳は可能なのか。あるいはおおざっぱな意訳しかありえないのか。どうでもよい些事で、およそ哲学が語る価値がないと思うかもしれないが、そうでもない。正確な翻訳が可能ではないということは、実は同じ言葉を話すどうしでも正確な意思疎通はできないということである。そしてまた翻訳が可能なら、完璧な論理というものが存在しうるということに(ひいては)つながる。理想言語が存在しうる。さらに敷衍するなら、世界が合理的であるか(つまり言葉、理論で割り切れるか)、本質的には不合理であるかという問題につながる。考えるまでもないと私は思うが、しかしそれは偏見かもしれない。いくつかの法則で世界が語れるとするいわゆる統一理論を信じる人は非常に多い。しかし翻訳可能性問題はここでは関係ないのでやめておく。

 輪廻を否定するのは、ある宗教的教義を特に否定したいわけではない。どちらかというと科学の根本を否定したいのだった。なぜなら現代科学をそのまま信じるなら、輪廻は肯定されなければならないからだ。なぜそうなるのかをしつこく論じている途中であった。最先端の科学と、人間の考えの中でも最もオカルト的で非科学的とされる輪廻などという空言を直線的に結びつけることはなかなか受け入れてもらいにくい。輪廻というと宗教的で信じないという人が、サイバー空間内に人格を移植してその内部で生きるということには賛成する。

 そしてもう一段厄介なのは、科学が輪廻を支持できるということは、だから輪廻は存在する、という形で論じられやすい。ちょうど霊界の存在が素粒子論によって証明されたと論じるいくつかの書物のように。あるいは、創世記の天地開闢がビッグバン理論で肯定的にとらえられたように。

 私は逆だ。素粒子論が霊界を証明できるなら素粒子論が間違っているのであり、聖書の記述とビッグバン理論が一致するなら、ビッグバンなどというものはそもそも起こらなかったのだ。それが正しい考え方というものではないだろうか。

 では、多くの人が常識的な感覚として輪廻はないと信じるのであれば、それと融和性の高い現代科学のほうこそ間違っているのではないか。私はこの点で、どこまでも常識的な感覚を押しとおしたいのだ。人は大概、科学的な見方にぶつかると、常識のほうが間違っているという結論になびいてしまう。それは現代においてある程度仕方のないことだ。しかし、もう少し常識を押してみる価値はないのか。