ほとんどの論者が、意識のカテゴリに属する或ることと、物理のカテゴリに属する或ることとが一致すると、即座に還元論の成立(つまり同一性)を認めてしまい、途中の理論的な説明はあまり聞かれない。両者から対応する事象を取り出した時、きれいに一対一の関係にはならないことをジョン・オースティンやウィトゲンシュタインが熱心に説くとき(しかし本当のところ、ウィトゲンシュタインはいかにも気のなさそうな語り方をするわけだが)、私たち読者は、もし彼らの言い分が通れば還元主義は成立せず、何か新しい考え方が必要だと感じる。しかし一方、失敗した場合、物理主義が成立すると感じるように誘導される。もちろんこれ一つで決まるわけではないのだから、若干可能性が高くなるというにとどまるはずだが、そういうことにはならない。すなわち観念論なり汎心論なり、あるいはラッセル流の一元論なりの、従来物理主義とは対極にあると考えられてきた立場にもどるという選択肢は、最初から除外されている。

 ここで脳科学を出さずに、古臭い哲学論の中で論じてしまっていることに対する疑問があるかもしれない。しかし脳科学というのはある脳状態と人の感覚との対応関係を追求するところ止まりであって、どこまで研究が進んでもデカルト的二元論の範疇を超えるところまでは行かない。唯物論を原理的に支持するとまでは言わないが、例えばフッサールが提起しているところだが、物質というのは計量可能なように定義された観念であって、現実に私たちが接する「もの」ではないという主張に、賛成することはあり得ないはずだ。

 この感じ方が普遍的かどうかはわからない。ただ心身問題をあくまで説明のシステムの違いととらえ、心理学的な(と、反対者には映る)説明方法を物理主義よりも下部に(すなわちより基本的なカテゴリに)据えようとしたフッサールに対し、観念論と名付けることで批判が完了できるという感覚は、この辺りの事情を裏書きするものだ。もちろん物理的特性の重要な部分を心の側にはめ込もうとしたカントこの方の哲学における失敗例があるし(無限という性質は認識にとって必要なものなのか。それとも世界に備わっているべきものなのか)、私たちが見る世界はそもそも実態の客観的な姿ではなく、遠くの星でさえ、あくまで人間の解釈が加わった像である、という言い方は、単純に物理主義に行かないということの理屈付けとしても、あまり説得力がないように感じる。説明システムの扱う物理的範囲の大きさが、いつの間にか存在論としての偏見になっている。

 より明快な説明的立場を求めていることは確かだ。意識が存在するという考え方は、私たちに後ろめたさを残す。正確に言えないということは引け目でしかありえない。相手が正確さではなく、単に言い切りの強引さに過ぎないとしても。しかし存在は還元されない。つまり意識が還元不可能なのと同程度には、物理的世界も還元できないだろう。何に対してかといえば、理性的な言葉に対してだ。本当のところは、意識が還元されないというとき、論争になっているのは説明的なシステムに対してであって、物理主義に対してではない。後者について言えば、はじめから問題外だろう。しかし物理主義の側から見ると、仮に意識が説明的システムに還元できるなら、物理主義にも還元できるということになっている。ここに重大な錯覚がある。

 意識を理解するうえで還元論を実現する方法として同一性が問題にされるとき、脳内の状態、たとえばC繊維の発火が痛みとして解釈されるということだ。すでによく知られる(そうでもないか?)ように、このままでは実は同一であるという主張にはならない。ある状況において同一視できるということであって、もし二元論を排するつもりであるなら、包含関係が存在するということにとどまる。これは先の「解釈」の文脈で言えば、私の日常的感覚に従うなら“C繊維の発火∈痛み”(痛みの一つの表現としてC繊維の発火がある)だが、哲学上では、またたいていの科学的解釈でも“痛み∈C繊維の発火”とすることが当たり前とされる。私にはこの解釈はあまり根拠がないもののように思われる。人間の体験として痛みが根源的なのであるから、脳内のある状態はその一解釈に過ぎないということが自然な考え方であって、脳内の一状態がある意味では痛みと解釈し得るという感じ方は理解が逆転している。ただ、痛みというものは、ありうるとしたら現象論ということになろうが、学問として究められたものではない。どう展開してよいのか、さしあたって私にも見当つかない。一方、脳内の物理的状態は、もちろん広範囲の理論に結びつけやすい。生物学としても、物理学としても、現代ならコンピュータ理論としても扱える。ただそれは世界に備わった特性かどうかは定かではなく、しかし人間の思考形式による階層わけであることははっきりしている。ここで言うのはすでに文章化された形式のことであって、カント的な意味合いではない。つまり“痛み∈C繊維の発火”というのは、そのような汎用性の高さの表現であって、存在論に転用できる見方ではない。

 しかしその逆も言える。物理的出来事を意識に還元することはだれも望まない。ある対象を見るとは、一種の説明を与えることだ。つまりそれは特殊な説明的システムに取り入れることであって、対象の存在論的身分を消去することではない。還元論は、精巧な理論体系が、それよりは一段あいまいな、感覚に支えられた個別の事象を、同一性に頼った消去主義的な理屈によって塗りつぶす作業である、と理解できる。その意味では、意識が還元先になるということは、よほどの偏見を持たない限り、思いつかないことかもしれない。私も多分無謀であると言うだろう。

 けれど、もし存在論を持ち出すならこちらが優先されるべきだろう。問題はこの存在論が、隠し持った意図など持たないことを、なかなか理解されないということだ。意図というのは、説明可能性に関する形而上学のことなのだが。