理空間にしか存在しないものを存在すると呼ぶべきではない。こう書いてしまうと混乱を招くことになるが、そもそもこの文章が理解可能なら、言葉は単一の意味に収束しないということはわかるはずだ。そしてこれが言葉遊びになりかねない危うさを持つとしても、そうではない理解というものもあり得る。存在論はその危うさの先にある。にもかかわらず、ほとんどの存在論はその危うさの中で遊んでしまう。まあ、以下数十行に書くことは、真剣に理解する必要はない。

 現実世界に同一性は存在しない。それは論理空間の中にのみある。そのことの帰結はいかなるものか。「論理空間に存在する」ものを「現実空間に存在すると言うべきではない」と書けば少しわかりやすいかもしれない。しかしどうも、この考え方では存在するとはある領域において一要素であることという意味に収束してしまいそうだ。でもたぶん存在するという語はもっと深く、いかなる領域も超えて存在を主張できるものに対して与えられるべきであると、形而上学的な意味としては主張されているように思われる。

 そもそも「現実空間」という言葉があまり明確ではないし、誤解を招く。文字通りの三次元空間であると理解すると、科学の定義するような物質の集まりというイメージに偏る。これならシャーロック・ホームズは存在しないと言える。しかしするとその名前は、例えば紙にプリントされたインクの形がその意味であることになるが、これは余りに二元論的で不自然だ。その形が示唆する意味とは、よくわからない言い方だ。つまり現実に対してそのように入り組んだ、過剰な説明を加える必要はないのではないか。論理学の思考上では、「アイデンティティ」は「存在」よりは一般的な概念であるに違いないが、その外に出るとその概念は適合しないように見える。ただ私というものが存在し、しかしその私は過去と未来を含み、その遠い私は実は存在しないと言ってもよいかもしれないとすると、私を成立させるためにはアイデンティティの概念に訴える必要がありそうで、実は現実世界という言い方でもはっきりと確定した何かはつかめそうにない。

 論理空間と現実と、今明確に線引きをしてしまったが、論理空間というものも実際に私たちが生活する現実の一部なのであって、そこまで明快ではない。役割は交換可能かもしれない。要するに、存在だろうが同一性だろうが、熱心に確定した意味を求めても、得るところは少ない。どこかに不自然な軋みが生まれる。論理空間においては同一性は成立するということも、実は約束事に過ぎないのではないか、約束事なのだから破る可能性もあるわけだとも言ってしまえる。シャーロック・ホームズは一つの観念であるとして、しかし原作者が持つその時代の知識を読者はとても持ちえないのだから、かなり違うはずだ。だから、ここにあるのは同一性ではなく「似ている」の強めの言い換えだろう。論理学の用語も、その延長にある。

 だからと言って、同一性がすべて「似ている」に置き換え可能なわけではない。過去の私と現在のそれとの同一性は、似ているに還元可能と言えばそう感じないでもないが、たぶんそうではない、もっと根源的な核心を持つ意味で同一であると言っている。つまり同一性、アイデンティティという語そのものが、結構怪しい。

 つまり同一性は論理的にも現実にも存在しない、だから物理と意識の還元論は成立しない。そう言いたいわけだが、それを言って「なるほど」ということにはならないだろうから、余計なことをくだくだと書いている。人は、たとえ論理学を知らないとしても、論理学の方向から物事を見てしまう(つまり同一性の語義に沿って思考してしまう)こともあり、現実のほうから思考することもある。