しかし同一性ということで問題にされているのはいかなることなのか。同一性が揺るぎのない単一な意味を持つのであれば、何かと何かが同じだということによって、同じとされる概念の中身を説明することにはならない。また、比べる両者の一つの性質を取り出すということであるなら、もともと違うものについて同一性が言われる場合に参照すべきタイプとトークンの包含関係を述べれば事足りる。

 タイプとはあれとこれとは似ている(同じタイプである)ということだ。トークンとは、似ていると言われるものは同じ性質(個別のもの、つまりトークン)を持つということであって、同一性とは煎じ詰めればトークン的アイデンティティに決着するという理論。すなわち同じものがあるとは、まがうことなく同じものが二つあるということであるとする。例えば青い空と屋根の青い家があるということは「青」と言う抽象存在が確かにあるのだ。

 理解してもらいたいことは、同一であることではなく、また同一である中身でもなく、それ以外のことなのだろう。

 ウィトゲンシュタインが「論理哲学論考」で言ったことはその点で一考に値する。彼のこの本はトリヴィアルな部分で間違いだと思う(私が言うのではなく、彼自身がそう言っているのだから仕方ない)ので、あまり権威付けとして引きたくはないのだが、そこには目をつぶるとして。

 彼の意見は、同一とされるものどうしの関係がアイデンティティなのではなく、同じ記号をあてがうことで表現したいということだ。A=Bの=がアイデンティティの意味ではなく、AはAであると、同じ代表象で表現されるべきではないかというのだ。何が違うのかと言うと、A自体は無意味であり、世界に存在しうるあらゆるものにあてがうことが可能である。空と屋根の話で言えば、「青」という代表象で表現されるというところで終わるべきで、等しいということも似ているということも単なる循環論法なのではないか。

 たとえば無限大と無限小の一点は同じである。これは考えるまでもなくナンセンスだろう。Aはそのものとしては無意味であることに対応している。しかし現代宇宙論はこの形をとっている。いとも簡単に無限大を無限小の中に押し込めてしまう。または無限小が内破して広がり続ける。このくらい大げさな同一視は、むしろ正しいのかもしれないと思わせるところがある。クジラとメダカは同じである。チャペルと太陽黒点は同じである。少しばかばかしいと思う。しかし何かと何かをイコールで結びつけるとは、そういうことだ。ことさらイコールというところに意味を求めるべきではない。ウィトゲンシュタインの言いたいことはそこにあったのだろうと、勝手に推測しておく。

 大げさな矛盾を含んだ同一視ほど正しいかもしれないと思えてしまうところに、観念と理論の側からこの問題を見ることの本質が現れる。無限とゼロの間に複雑な数式を挟むともっともらしくなる。全宇宙の物質も質量も無限小の一点に収まるという具合に、具体的な色が混じると少しは怪しく感じる。普通に読んで気づきやすくなる。それとも、それでも理論周りを信じるだろうか? 脳内過程と意識は同一であるということもこれと同じレベルの与太話だと思うのだが。

 これは「哲学探究」でも、テーマは変わるが同じ姿勢であると思える。そこでは真理値ということが問題になる。こちらの場合では、真理ということに重きを置くのではなく、何が真理であるかの、「何か」のほうを考えるべきだということになる。つかみにくい話のようだが、「これとあれは同じである」、「これこれは真実である」という文章があった場合に、最も自然な形で理解しようという態度に過ぎないと思う。