ゾンビが幽霊や妖怪の類として理解されると、呪術師によって魂のないまま甦らされた死体という、ありきたりの想像になる。黒人の民間信仰に淵源するということは、ホラーとしての味付けとして有名だが、どの程度まで近代的な産物なのかは見極めがたい。アフリカから直接持ち込んだ宗教そのままなのか、あるいはわたってきてからどういう発展をしたのか。そのあたりの記述は当然ながら少ない。

 150年ほど前の時点では、現代よりももう少し深刻で禁忌的な意味合いを持って眺められていた。ゾンビとは、西インド諸島のプランテーションで働く黒人奴隷の暗喩なのである。呪術師がゾンビパウダーというものを振りかけると、魂が抜かれ心を持たない生命体となる。この場合の呪術師は、魂を抜き取って奴隷として農園に売る売人の役割を振られることもあれば、頻発する反乱を指導する黒幕ともみなされる。いずれの場合でも、白人の一方的な嫌悪感と恐怖がゾンビという労働者に投影されている。魂がない、というのは、心理学や民間信仰に属する考え方ではなく、もっと悪意のこもった、直接的な言葉だ。

 この知識、当時のゾンビという存在の扱われ方は、いまウィキペディアその他の情報を探っても、なかなか察しられない。もしかしたら差別的であるという理由かもしれない。そして西インド諸島や南アメリカにおいて、いかに黒人奴隷の反乱が頻発していたかについてもあまり語られない。しかし記録文書はたくさん残っており、ゾンビの正体が何者であるかを示している。それは明らかに下層の労働者である。農園で蜂起した黒人たちが自分の住む館にゆっくり押し寄せてくるという恐怖感を描写した記述が幾つもある。それはまさに三流ホラー映画の場面のようではないか?

 ラフカディオ・ハーンはこの地方に興味を持ち、ギアナへの旅行に続き、二年間ほどフランス領マルティニークに滞在した。当地の文化を大いに吸収した成果が、A midsummer trip to the tropicsという旅行記、付随するエッセイや、小説Youmaなどだったわけだが、これらの諸作にゾンビという言葉が実際に出てくる。

 もちろん時代の制約もある。しかしこれらを読むと、彼が日本で思われているほど現地人に理解のある人情家かどうか、少し疑わしくなる。それは人物描写を離れて地政学的な発言に踏み込むと、白人世界が圧迫されることへの不安感や、奴隷解放によって血がまじりあうことへの困惑が透けて見えるからだ(個人的に嫌と言うことならわからないでもない)。彼はプランテーション農園が奴隷を使うことに反対していた。しかしそれは正義感からではなく、主人と黒人女性の間に子供ができることは避けられず、いずれ多数決の理論で黒人中心の国家になることが必然と考えたからだ。なんとなく、移民の数が増えている現代の先進国の状況を先取りしているようではないか。

 自分もゾンビ側に引きずり込まれ、その文化に染まる。明らかにゾンビに対する恐怖感は、こうした感覚に負っている。現代人はこれをあからさまに認めたくないだろう。しかしハーンの同時代人はひそかに彼に共感するはずだし、近代のホラーの一部もその手の差別感を利用してきたことも確かだ。

 もっとも有名な例としては、ラヴクラフトの「ダンウィッチの怪」と「インスマウスの影」を挙げておく。彼の種々の作品に散見される、村の中で近親交配を繰り返して退廃してゆく一族という設定は、彼の嫌悪と恐怖感がいかなるところに由来するのかを暗示している。もちろん今更彼を責めても詮無いことで、その点も含めて彼の病的な心を味読するのが文学の楽しみ方と一応言っておく。ただし、何が背後にあるのかは敏感に読み取りたい。

 私は、俗受けを狙ったフィクションは偽善的なものであるはずだと思っていたから、ゾンビが一向に同情的に描かれないことを疑問に思っていた。同情を集めるのは貴族的な要素を持った吸血鬼一族(例えばブラド公爵がドラキュラのモデル)ばかりであり、ゾンビは常に大量に湧き、一方的に処分されていく。そこには一言で表しがたい偏見がありそうだ。それとも人々は、公言はしないがすべて分かったうえで、悪意を持って楽しんでいるのだろうか。

 これらの知識が封印されたまま、大量のゾンビものを楽しむ現在の状態の方が、むしろ健全なのかもしれないと思わないでもない。これはどうなのだろう。妙な知識を書き込む私の方が非寛容的なのか。

 ただ私は、この程度の図式すら見抜く人が少ないということに引っかかる。半世紀前ほどの、認知症患者の心を空虚と見たような、他人に対する想像力のなさを、残念ながらここに感じてしまうのだ。強弁だろうか。