私がわかりやすいと思うだけで、そうでもないのかもしれない。つまり、これで「なるほど相対論は間違っているなあ」とはならない気はする。これら以外にもあったかもしれないが、まあ今思いつくのはこの程度。

 

1,              質量を持つ物質が光速度に達すると質量が無 限大になる。E=mc²により、エネルギーを持つ光子は当然質量がなければならない。したがって光子は無限の質量があることになり、ブラックホール化しなければならない。

2,              ビッグバンは無限小の一点から開始したことになっている。今の宇宙の全質量がそこにあるとすると、それを押し出して開始させる力はどこから来るのか。つまりブラックホールをこじ開けるエネルギーだ。当たり前だが、ブラックホールの後退速度は無限大という設定なので、無限大以上の加速度を有するものでなければならないのだが、その論理矛盾はどうするのだろう。もちろんホーキングなどの数学的解釈その他もあるが、ごまかし以上のものとは思えない。「初速は無限大以上である」ということを数式で表してあれば、それは本当のことになるのか? 無限大以上のエネルギー? 全くばかばかしいとしか言いようがない。

3,              扁平な時計は作動しない。相対論では、高速移動する物体は前後に縮んだ形となる。しかしそれが現実の物理的変化であるなら、例えば時計は動かなくなる。現実に存在するものであるなら、形が変わってそのまま正常に機能するものはないだろう。宇宙の果てから見たら地球は光速に近い速度で動いていることになる。つまりその視点の方向に沿って極端に縮んでいることになる。そんな状態で、どうして壊れずにいられるのだろう。もちろんこれは機械に限らず、素粒子も変形する。それでまともに存在を維持できるだろうか。

4,     タイムパラドックスがあるようにフィジカルのパラドックスも存在しなければならない。移動するものは時間が遅れるように、縮む。外を回ってきた宇宙船が、元の形を取り戻すのならば、当然時間の遅れも取り戻す。

5,       江戸時代にタイムスリップしたとしよう。その場合、私が江戸時代に行くのか、

私以外の宇宙全体が江戸時代まで戻ったのか。実は明らかではない。とてつもない対比のようだが、これが時間の観念の難しさである。ということは、実は量子力学における量子テレポートも実は無意味な観念なのである。

6,  アンドロメダ大星雲の中心とする大球を描き、その上を移動する二点は、どれほど

速度差があっても同じ距離で大星雲と光で交信できる。つまり時間のずれは生じない。

これは速度による時間の遅延が生じないことの証明になる。

7,   相対性理論が視点の相互性を掲げている以上、宇宙の中にブラックホールが存在するのであれば私たちの日常生活の場もブラックホールの内部でなければならないということになる。それはあまりに無意味な意見なのでブラックホールは存在しないという結論が妥当であると思われる。

8,   重力と、重力のない場所で上向きに加速されるエレベーターが同じであるはずはない。なぜならエレベーターをそのまま加速し続けるなら容易に光速度に近づいてしまうことになり、相対論が正しければ中にある物体はすぐにとてつもなく大きな質量を持つことになる。これに反して地上にあるものは数億年、数十億年重力にさらされ続けながら、そのままの状態である。なんなら、永遠に安定した状態であることも想像できる。地表にあるものすべてが、直ちに持ち上げられないような、莫大な質量を持ってしまうだろう。砂粒一つでさえ。

9    ブラックホールは無限大のゆがみとされる。重力が無限大の特異点という設定なので、重力とは空間の(重力の掛かる方とは)逆方向への移動であると定義される相対論において、つまりそれは無限大のゆがみということになる。

でも、無限大のゆがみとは何だろうか。私にはまったく意味が分からない。頭が悪いと言われてもよいが、本当にわからない。そしてあえてわからないことが正しいと主張するわけだ。わかると思える人は、本当は何もわかっていないと私は言いたい。例えば一枚の紙を二次元世界と見立てて、それにねじりを与えることがゆがみということになる。このとき、そこに描かれた人がおのれのゆがみを認識できるとしたら、その人はすでに3次元の存在なのではないだろうか。もとより、ゆがみがあるということですでに3次元が前提とされているということになる。丸めるとか、へこませるとかは3次元の中での行為である。さらにそのゆがみ具合が無限大ということであれば、紙のへこみは3次元を突き抜けたものになるはずで、次元を一つ上げるだけでは足りない。それはどこまで行けば止まるのか。2次元のゆがみは数学的な表現として理解できると同時に現実として把握できるような気がしないでもない(あくまで気のせいだ)。3次元のゆがみも同様であると思うのはただの勘違いではないだろうか。

10,   「光速度が事実上の無限大の速度である」とは、光よりも速く移動する存在がないということを意味ありげな表現で語っているだけであり、気取ったレトリックにすぎない。

11,   手の上で自在に無限の観念を扱い、それが計算可能な定数にすぎず、あまつさえその外に出てこれをながめることができるかのような立場をとるのが実無限である。それは決して到達可能ではなく、計算の対象ともなり得ないというのが可能無限ということになる。

12,   あなたは長命なエルフ族である。ある町を訪れた。そこには今年新しく生まれた人間族が二十人いた。人の平均寿命は八十年である。町を出て、しばらく旅をしたのち、再訪したのがちょうど八十年後だった。あの時の新生児の中の七人が生き残っていた。するとエルフはこう結論付けた。「人の寿命は八十年と聞いた。すると、八十年の間、これらの人々は生と死の重ね合わせとして存在していたのだ。私の来訪がかわいそうな十三人の死を決定したのかもしれない。申し訳ないことをした。」これはナンセンスではないだろうか。つまり量子論は数式にこだわり過ぎて、平均的な一般解を個体の動静に直接紐づけてしまっているのではないか。

13,   たとえば私の乗る100メートルの宇宙船を50メートルと認識する別の宇宙船があるとして、それだけを考えるなら単純な重ね合わせだが、30メートルや70メートルと認識する運動体が宇宙には必ず存在する。ここでも重ね合わせは無限の数だけ存在するのであって、二者択一などではない。また、たとえば時計がいびつに見えるときの見え方はさまざまだが、これも無限であり得る。その見え方ひとつずつに多世界をあてがう必要があるとは、もしまともな語り方で事実が描写されるなら、誰も思うはずがないのだ。つまりそれは十円玉を種々の方向から見て、極めて薄い長方形に見えたり真円に見えたりすることと同様の、視点を変えれば違う形に見えるということのバリエーションにすぎないのだから。見え方ひとつずつについて別の世界線が存在する?

14,   地表にある物体にかかる力を強いて理念としてまとめるなら、以下のようになる。地球から逃れようとする動きに物体がさらされており、それに対する抵抗が物体の質量を生む、そしてその全体が空間のゆがみ(収縮)で常に地球の側に引き寄せられ、結果として安定した場所(地表)にとどまり続ける、といったあたりだろうか。しかしこれは現実の物体に対して余計な観念をいろいろ付け加えすぎていて、ほとんど説明能力を失っている。この意見では重力は斥力ということにしかならない。ばかばかしいにも程がある。

15,     私たちは二次元世界にアクセスできない。絵やホログラムは三次元の存在である。だから視認できる。二次元がないということは、四次元が存在しないことの証明になり得ると私は思う。