宇宙船の時間の遅れである。これは何度も同じようなことを繰り返すが、そもそも宇宙船が縮んだ形になったら、それはまともに飛ぶはずがない。ぺちゃんこにつぶれた自動車がまともに動くはずはないし、縮んだ列車も走るわけがない。遠くの銀河からは太陽系のほうこそがかなりの速度で遠ざかっている。したがってかなりつぶれた形になっている。それなのに私たちは普通に生活できている。なぜこの当たり前の事実をだれも言わないのだろうか。

 もちろんどういう反論がありえるのかはわかっている。ものが縮むとはそれ自体が縮むのではなく空間が縮むからである。だからその空間内に生活する私たち自身にはそれは縮んだこととはならないのである。

 やはり、マイケルソンの実験において、機器自体が縮んだことと光が遅くなることの処理がいかにも場当たり的であったように、そして移動する車が縮むのか道路も縮むのかが全然うまく弁別されていないように、ここでも適当な、一種のいいとこ取りが行われているのである。マイケルソンの機器が縮んでいたとすると、その機器にとって、光速度は上がるのである。変な言い方だが、理解はできると思う。すると、私たちが縮んでいるなら光はその方向のみ光速度以上で走るのだ。そうはなっていないということは、つまり私たちは縮んではいない。こんなことをわざわざ書くまでもなく、もともと縮むなどということはあり得ないのだ。

 列車の思考実験は、搭乗者と傍観者の、純粋に一対一の時間の食い違いとしてとらえてもらうよう作ってあった。搭乗者の視点は、あくまで傍観者との比較で考察される限り、パラドックスではあるが解きえない難問にはならない、と感じられる。もちろんパラドックスであるのは読者がニュートン力学に縛られた旧弊な思考をこれに当てはめるからであり、相対論を適用することで問題はすっきり理解できる、ということが相対論支持者の言い分である。

 しかし搭乗者に対する前後からの二つの光に着目すると、そこで矛盾が明らかになる。相対論においては、時間とは光速度を一定に保つための要素に過ぎないからだ。したがって彼への光の当て方を変えると、それに準じた時間の進み方の変化が要求される。

 こういう例はどうだろう。100台のラジコンカーやドローンを用意し、光源を積む。それぞれを近づけたり遠ざけたり、あるいは横方向に移動してみたりなど、ランダムに動かし、しかし光源はしっかりとある特定の人を照らす仕組みにしておく。その人にとって時間はどういうものになるのか。彼女もしくは彼に一律の時間感覚があるとどうして言えるのか。

 もし、すべてが固定した大地の上の出来事であるから時間もそこを基準に統一する、という反論がありえるなら、彼女/彼の方もランダムに動いてもらうことにしてもかまわない。相対論の定義ではこれですべてが運動系どうしの関係になる。注意しなければならないのは、これで大地も固定した剛体ではなく、自在にモーフィングする運動系の集合体となることだ。

 この条件で、どのような時間が可能になるのか。100の時間軸が彼自身の中で同時進行する、という考え方を検討するべきかどうかわからない。多世界解釈も含めて、私は全く価値を認めたくはないと思うのだが、納得できる語り方がありえるなら、聞いてみたいとは思う。

 たいていは、時間のずれを相手方に押し付ける、つまりラジコンカーやドローンがそれぞれの時間軸を動く、という形に、何となく収まるのではないだろうか。これは理論的にそう考えるというのではなく、あまり追求せずぼんやりとしたままに意識の片隅に追いやるという感覚だ。時間という観念のあいまいさが、あいまいなままにしておくことを許す。

 思考のあり方として、宇宙船も列車も自動車も同じだ。ついでに言えば、マイケルソンの実験機器、ただしこの場合はエーテルの存在を確認するという元の意図ではなく、その結果を相対論にとって都合の良い解釈で語る場合だが、それも同じ形になる。つまり光の速度を両義的にしておく思考実験となるのだ。