高速移動、いや高速でなく低速でもよいのだが、わかりやすさのために高速と書いている、その移動するものは時間の進みが遅れ、そのものの長さが縮む。ところがこれは両立しないと私は思う。

 たぶんこれには一つの返し方があって、逆に移動する宇宙船から見た場合外部の観察者が動いていることになるはずだから、目的地自体が近くなるというものだ。外部の観察者は宇宙全体を固定した一個の系とみている、という解釈になる。これに、内部の視点と外部の視点を混同させてはならない、という注釈がつく。外部の視点で、宇宙船自体の進みが遅いと指摘することは無意味であるという主張である。

 これは物が縮むことの両義性を適当に拾い上げて取り繕った意見だろう。上にまっすぐ行く光は短くて、それを静止する者から見ると斜めに飛ぶので長くなる。それが時間の進みの差となる。その前提の中で、斜めに飛ぶ光の視点で言うと、車も縮むが車が乗っかっている道路自体も縮むという発想にならなければ、本来はおかしいのだ。ゆるがせにしてよいはずはない。

 それを適当に無視してしまう。これで、進みの遅い光と、それに応じた宇宙船、そして小さな外部世界という完結した世界ができ上がった。そして一方に我々が通常考えるところの速度を持った光と、それに応じた広い世界が存在する。こちらもそれ自体で閉じた理論空間である。

 なぜ二つの独立した世界があるのか。何だか狐につままれたような、もやもやの残る結論ではないか。もとはと言えば、宇宙船が縮み、そうであるなら内部で灯される明かりから放たれる光はとても進みが遅いはずである、という仮定から始まったことだった。この仮定は相対論の語る事実として間違いのないところである。では確かにそちら側の光は遅いのだ。

“それでは全くつながりのない2つの世界が存在することになるではないか。だからこそ光速度不変の原理が存在する。2つの世界は光速度が等しいことによってつながるのであり、そこに変換式が存在する根拠があるのだ”

……一つ理屈を考えるなら、そういうことになるのかもしれない。ほかの形もあり得るのだろう。もちろんこの時点で、はっきりとその理屈は間違いであり、明白なでたらめであると私は断定するが、案外そうは捉えない人が多いことも事実だ。

 相対論に批判的な人の著書をいくつか読んだ。基準系とそれに対して運動状態にある系とを図示し、座標が違うのだから一本の線で結んではいけないとか、共通の計算式は成り立たないとか、丁寧に説明してあるものをいくつか見たが、あまり一般の納得は得られていないようだ。一本の線で結んではいけないというのは、車に乗った人がまっすぐ上昇する光線と見るものを、車外の人は斜めに上がる光線として見るということを指す。つまり反対側の言い分は、まっすぐ上がる光と斜めにいく光はそもそも別の波動であって、それを同一視するべきではないということになる。

 しかし私は相対論支持者の言い分が分からないでもない。もちろん間違いであると思う。しかし、一本の線で結んではいけないと言われても、そもそも一本の線で結ぶという主張なのだし、計算式は成り立たないと言うが、それをちゃんと提供するのが相対論ではないか、ということである。要するに水掛け論だろう。

 ただ、斜めの光を正当化すると、車も道路も短くならなければならない。このことの矛盾は余りにも明らかではないだろうか。

 エレベーターの思考実験は、外と連続した空間であるからこそ起きる現象だった。そこを閉鎖空間ならではの出来事と誤解し、もっともらしい語りを用意する。わかってしまえば単純極まりない子供だましの理屈にすぎない。列車の思考実験もどきの場合には、最初から強引にあり得ない設定を持ち込んでいた。つまり列車の中央で両方からの光が最初にぶつかるということは、どう考えても実際には起こりえない。

 ただ、宇宙船の例はもしかするともう一段複雑であり、内部が閉鎖空間であることを超えた、奇妙な逆転が生じている。つまり外部の傍観者の方も閉鎖空間に置かれ、二つの世界が並立している。それぞれが無矛盾であれば、それで納得してしまうことは当然あり得るだろう。思考に対する目くらましの仕組みは閉鎖空間という見なしなので同類だが、気持ちとして並行世界を肯定したくなる誘惑が一段強い。宇宙を舞台にするからだろうか? そこはよくわからない。

 エレベーターと列車の、二つの思考実験の場合には、内部が独立した空間であることは恣意的な前提である。したがって内外が連続的であることを示せば、ある程度こちらの言い分に納得してくれる人もいるかもしれない。しかし内部が独立空間であるという積極的な主張をする相手に、「いや内部を独立的に語ることはできない」と言って、それで引き下がる人はまずいないと思われる。列車の思考実験の場合には中央で光が出会うという小細工のおかげで同時性のずれということの虚構性が示せたわけだが、すでに時間も巻き込んだ形で独立性が主張されているとき、同時性の概念を持ち込んでの説得は有効になり得るのか。

 いや、この言い方だと読者の理解力を低く見ているようで、好もしくはないかもしれない。そんなつもりはないので許されたし。説得力としてどうなのかなあと思っているだけだ。