別に列車に限らず、フライングカーペットでも時間の遅れは生じる。歩くことと走ることでも時間の進行差があるくらいだから。それが相対論の主張である。

 とすると、例の列車の思考実験の場合、光が列車の中央で最初の衝突を起こすということは現実的ではないということになる。もし停車している場合、真ん中で出会うだろう。しかし動いているなら進行方向に沿った光は列車の中央に到達するのに、より大きな移動をする必要がある。これを、「それは列車外の視点である」と切り捨てたがるのが相対論の擁護者であるわけだが、実際のところ、もしフライングカーペットで実験可能ならば、それは外の人からも追える光になる。つまり光の速度に関して内外の違いという言い分はナンセンスだ。

 まあ、これで反論としては十分だとは思うが、一応補足的なことを述べる。入り組んでいるので、理解は求めない。列車内の進行方向に沿った光は、外の視点での光速度よりも速く進むのでなければならず、相対論の要請により光速度を調整することできないはずなので、もし仮に時間、もしくは空間の伸縮でつじつまを合わせようとするなら、

 1この搭乗者にとっても列車の前半分の空間は伸び、後ろ半分は縮む

 2この搭乗者にとっても列車の前半分の時間の進みは遅くなり、後ろ半分は早くなる

 その二者択一になる。ところが、列車内は同一の系であるという前提があるので、どちらの解決も自己矛盾である。もちろん直感的にも無理であることはすぐにわかるだろう。これではもはや列車内の人の視点すら意味をなさない。この矛盾は解決不能であると思われる。まさか新たなパラドックスであり、これこそが現実の不可思議であるなどとは言わないだろう。言うかな?

 では列車外の視点で、光が列車というこのブラックボックスを通過する間に、列車内の時間の進みの遅さを示すようなことが起こりえるのか。相対論によれば外の視点で一貫した速度を保つのでなければならないだろう。したがって列車内での光の加速も減速もあり得ない。

 

 

 つまり、こういうことだ。思考実験の考案者は、列車が移動した後の光源の位置をあくまでABとしているが、実際にはA’B’でなければならない。移動する物体からくる信号はどんな場合でも本体よりも少し後ろから発しているように感じられるはずだ。超音速ジェットの音は後ろに取り残される。

 当たり前ながら、外からの視点で(そしてそれのみが正解なのだが)、たとえば光源Aからの光は問題なく光速度cの値を持つ。では搭乗者の視点でこの光Aは光速度cであり得るかどうか。ニュートンの式では搭乗者が見る光Aは(光速度-列車の速度)であり、この光が搭乗者の立つ位置に達するには(列車の半分の距離+列車が動いた距離)を要する。つまりこの光は、思考実験の意図する通りに、もし中央の搭乗者の立つ場所で前からの光と遭遇するなら、外の視点では相対的に速く進む必要がある。一方、前面から搭乗者の立つ位置まで来る光Bは相対的に遅く進む必要がある。つまり、速度を持った列車は外でこれを見る人に比べて時間の進みが遅くなる、という相対論の主張とは裏腹に、列車の後ろ半分は時間の進みが早く、前半分は時間の進みが遅い、という結論になってしまう。

 もちろんこれだけではない。前からの光が中央点を過ぎた場合、後ろ半分の、時間の進み方の早い領域に入り込んでしまうわけだが、その場合どう考えるべきなのか。相殺されて、地上の視点と同じ時間の流れになるのか。それとも、2つの時間軸がここで同時に進行していると言ってしまうのか。

 相対論お得意の二択でも十分に矛盾が生じるわけだが、しかし例によってこれは無限の分岐が存在する。列車内のあちこちに光源を設置した場合、いろいろな角度の光が乱れ飛ぶことになる。それぞれが固有の時間進行を要求する。列車の進行方向に対して異なる角度を持つので、地上の視点との速度のずれが各々違うからだ。相対論はもちろん、その違いがないよう、時間軸をずらして調整するという考え方をするわけなので、真ん中に立っている搭乗者には、例えば10もの時間が同時進行している、という妙な結論になる。これは彼以外の10の視点でということではなく、彼自身の視点で10の時間の流れを目撃しているということである。

 しかしこれは変な話だ。なぜなら考察の出発点は、地上にいる人との時間の認識の違い、だったからだ。話がずれてゆく元は、搭乗者が、前から来る光と後ろからの光それぞれに、別の時間の流れを想定するしかないというところだろう。これが矛盾だからこそ、例の思考実験もどきは列車内をあたかも静止した空間のごとくに装い、二つの光は等しい速さで等しい距離を進み、中央で合する、という形に強引に持って行ったのである。しかしそれはあり得ない想定であり、ありえない結論なのだ。