しつこいようだがわかりやすさのために元の思考実験(と言うほどのものではないと正直思うが)を繰り返す。

“列車の内部の前後にライトをつけ、同時に点灯させる。中央に立つ人はこれを同時に点灯したものと認識する。駅に停車中ならば、中の人とホームに立つ人、どちらにとってもその瞬間は同時と言えることは確かだが、この列車が動いている場合には2つの「瞬間」には‘ずれ’が生じる。運動系においては時間の進みが遅くなるからである”

 動く列車の中央に立つ人が、車両前後の点灯時間を同時と認識するという説は、明らかに全くのイメージ頼みである。光源との位置関係が変わらないというところに何か根拠がありそうに思えてしまうからだ。だが相対論の言い分は、運動状態の如何にかかわらず光速度は一定であるということだった。ということは、わざわざ先入観を利用する必要はない。

この思考実験では、列車内の目撃者は光源に対して静止状態であることが意図されている。

 図を見ると、二つの光源からの光が同時に届くという感じに、自然に誘導されてしまう。つまり列車の内部のみ独立した静止系であるような気が、なんとなくしてしまう。列車外の、本当に静止している人と変わりなく両方からの光が彼のところで交わると読者が受け取るようイメージ操作しているわけである。

 移動速度の違う二人の観測者に対し、光はともに同じ速度として見える。これが相対論の主張である。とするならば、独立した空間は必要がない。走る人と立ち止まる人に対し、光は同じ速度として観測される。ということは、地面に固定した、例えば10キロメートル離れた光源を用意し、その間を車で走っても、出発点と目的地点からの光は同じ速度で観測されるということである。これをこのように文章書きして、「どちらの光も同じ速度である」と言われると、そうかもしれないと思えなくもないかもしれない。歩く速度の違う人の時間認識は、地球上並び差だが、アンドロメダ大星雲で起きることの同時刻認識にまで拡張すると数週間になる、というペンローズの説も、単なるイメージ頼みだった。

 思考実験に書かれた文章の一部分に対して、なんとなく正しいような気がする。そして全体の主張はそれに対して矛盾を示しているので、複雑さがつかみにくくなる。これが、一連の思考実験に騙される人が多発する仕掛けだろう。でも本当はそこまで複雑なわけではない。イメージ頼みの前提のほうをまずは疑えば済む話だ。

 ということは、とても簡単だ。上に書いたとおり、「地面に固定した10キロメートル離れた光源を用意し、その間を車で走っても、出発点と目的地点からの光は同じ速度で観測される」ということで考えてみればよい。