基本中の基本は、相対論の主張は光の速度がいかなる観測者に対しても一定である、ということだった。もしあなたが静止状態であるなら、左からの光も右からの光も、上からの光も同速度であることは納得がいくかもしれない。しかし移動状態である場合、どの方向からの光も同一速度であるということはいくらなんでもおかしくないか? おかしいのだ。

 それは最初の思い付きで数値化したため、全く見えなくなってしまった。前にも上げたこれだ。この数式で光の速度を考えるとしたら、どの方向からの光も同じことになる。

 まさかこんなうっかり過ぎるとしか言いようのない間違いが、人類を百年以上惑わし続けたとは誰も思わないだろう。しかしこれが実際に起きてしまったことなのだった。

 アインシュタインの自伝から引いておく。

 特殊相対性理論にたどり着いたのは、「既に十六歳のときに思い到ったパラドックスから――十年におよぶ思索の後のことであった。そのパラドックストはこういうものだ。もしも私が光線を速度ε(真空中の光速度)で追い掛けたとしたら、そうした光線を私空間的に振動している電磁場が静上しているものとして観察することになろう。しかしながら、そうしたものは、経験に基づいても、マクスウェルの方程式によっても、存在しないように思われる。そもそもの初めから、次のことは私には直観的に明らかであった。すなわち、そのような観測者の立場から判断しても、何事も、(地球に対して)静上している観測者にとってと同じ法則に従って生じなければならないということである。」

 いちおうだが、マクスウェルの方程式というのは電磁場についての計算式であり、それを光について当てはめようとすることは余り根拠のない一般化であると言っておく。これはもっとも大きな誤解の一つかもしれない。コイル状の電導線に磁石を入れて動かすと物理的な変化が起きる。磁石を周りに配置して電導線を中に入れても同じこと。モーターがその作りになっているから、これは誰でも知っている。しかし光にそのような性質はない。つまりコイルを電車として、その内部にあるものは(電子を含む物体なら)影響を受けるだろう。光にこれは当てはまらない。

 それはそれとして、ここに表現されていることは、「光の速度が一定である」ことがすべての根拠であるという事実を示している。それが相対性理論の根本発想であり、そのことを正当化するために数式が調整されている。例えばだが、しかしながら少し減速した光のふるまいならどうなるかとか、実際的な考察が全く考慮されないのはいかがなものか。ドップラー効果が光にもあるということは、速度差があるということでしかないと思うのだが。

 以上のことをまず頭に入れておくならば、高速移動する乗り物においては時間の遅れが生じるという主張が、いかにナンセンスであるかが誰にでも理解できるのではないだろうか。つまり、例の思考実験である。

“列車の内部の前後にライトをつけ、同時に点灯させる。中央に立つ人はこれを同時に点灯したものと認識する。駅に停車中ならば、中の人とホームに立つ人、どちらにとってもその瞬間は同時と言えることは確かだが、この列車が動いている場合には2つの「瞬間」には‘ずれ’が生じる。運動系においては時間の進みが遅くなるからである”