いま問題にしているのは同時性ということだ。高速移動する運動体の内部の人間と、外部の視点とで、時間認識が変わるということが相対論の言い分になる。つまり同時ということが遅れて生じる。その変わるはずの時間認識を二つながらに肯定するところにパラドックスがあるという。そのパラドックスの存在こそが相対論の偉大さを証明する、ということが彼らの言い分である。

“列車の内部の前後にライトをつけ、同時に点灯させる。中央に立つ人はこれを同時に点灯したものと認識する。駅に停車中ならば、中の人とホームに立つ人、どちらにとってもその瞬間は同時と言えることは確かだが、この列車が動いている場合には2つの「瞬間」には‘ずれ’が生じる。運動系においては時間の進みが遅くなるからである”

いろいろなバラエティはあるが、これが典型的例であろう。

 わかりにくいので図をつける(図がそもそも見にくいというのはなしでお願いします)。例えばこの列車の中の人と同じ位置にホームに誰か立っているとして、そしてホームにもこれらの光源と同じ位置にライトをつけていたとして、その人が光の到達を確認する瞬間よりも、列車の中の人が確認する瞬間のほうが遅れる。なぜなら列車が移動しているわけだから、その移動時間分先になるはずだからである。

こう説明してもよくわからないかもしれない。だが何度も言うように、わからないことが正しい感覚である。これも繰り返しだが、私が問題にしているのは、なぜわかることのほうが不自然なことを、わかった気になってしまうのかということだ。

 単純な事実を繰り返しておきたい。この思考実験は、列車を外界から全く独立した、いわば閉鎖空間とみなすことで成立する。すべての物理現象がこの内部空間のみで完結し、まわっているものと見なしている。でもそれはあり得ない。エレベーターの思考実験では疑似重力を説明するために、箱の内外が全く物理的に孤絶した「空間」であることを強調するという戦法を取っていた。あえて言うなら、印象操作していた。しかし事実は外の視点と内部の視点を適当に行き来してもっともらしい語りを演出しているのである。今回の場合には、列車が動いている場合、その中央に立つ人が、AとBという二つの光源の光を同時に到達するように見るという前提は正しいのかということになろう。相対論の主張ではそうなる。論拠は、いかなる人にとっても光速度が絶対的基本条件だからである。だから進行方向に沿った光も、その反対の方向の光も、同じ速度で向かってくるというふうに、中の人には見える。

 まあ確かに、何の考えもなくこのような図を見せられると、いかにも光は同時に到達すると錯覚しないでもない。ただそれはよくよく考えれば正しそうではないと、誰もが思い直せるはずだ。

 ホームで待つ列車に乗り込む。出発の瞬間、私たちは、立っていれば足の裏、座っていれば椅子に預けているお尻や背中に衝撃を感じる。加速すれば、全体に引きずられる感じだったり押されている感じだったり、とりどりに体の感覚を味わうことになる。しかし列車内が物理的に自立した異空間であるなら、私たちはその「空間」の動きと一体化するのであって、床や背もたれからの微細な力の変化を示す信号はあり得ない。

 列車の例が多いのは、それは列車の内外を全く別の時間軸で語れる閉鎖空間と印象付けやすいからにすぎない。したがってこれは同時性が争点であるように見えて、実は列車内が独立した空間であるという錯覚に頼った、ある種のだまし絵的な物語だ。

 相対論の言い分は、鉄の塊の高速移動でも適用される。塊の時間進行は遅れ、長さは縮み、質量が増加する。では、思考実験は簡単だ。全面ガラス張りの列車でもよいし、何ならフライングカーペットでも実施可能だ。でもその舞台設定で、乗っている人と外部の人で、光が相対論の主張するような意味で同一だという印象を与えることができるだろうか。つまり、それが物理的に独立した閉鎖空間を形成するという認識を持てるものだろうか。たぶん無理なのではないか。フライングカーペットに蝋燭を二本立てて実験したら、普通に考えると風で火が消えてしまう。外側と同じ物理現象が働いているからである。

 運動系という不思議な空間は存在せず、地面という静止系の上を列車という物体が移動し、その列車の中に人がいる。つまり車内の人は列車という運動系ではなく、地面という静止系の上の、間接的にではあるが、紐づけられた存在として考えなければ、全体をきれいに語ることができない。発車や加速度を知ることができるということは、結局それが正解なのではないか。

 私たちは窓から外の景色を眺めることができるし、外の音も聞こえる。外から中の様子もうかがえる。ここまで、いろいろな物理的事象を連続的に語ることができる空間で、時間の因子だけが独立し得ると、そんな不思議なことがあり得るものだろうか。