ところで、相対論をもっともらしく装う方法論の一つは、全く同質の選択肢を持ち出して、どちらかを選ぶ積極的な理由がないという形だった。思考がこの形にはまり込むよう順序良く自らを誘導してきた場合、積極的な反論は思いつきにくいかもしれない。シリウスまでの距離は飛来物の速度によって5光年かもしれないし、8光年かもしれない。ここで二者択一を迫るなら、確かに迷うだろう。地球に据え付けた観測機器で測った10光年足らずという数値、もしくはありえないことだろうが(シリウスは複数の恒星がまわる、いわゆる連星なので、もし惑星が存在しても太陽系のように一定の環境条件を維持できない)、シリウス系の住人が出した数字がこれらと並べられるとき、錯覚が始まる。飛来物の視点に立った宇宙像を私たちは描くことができない。できそうに思えるができないということは、ミンコフスキー空間が全面的にデカルト座標に依拠した概念しか提出できないことに表れている。つまり私たちは静止座標の上に動く物体を置く形でしか宇宙論を組み立てられないのであり、相対性理論は静止座標を宇宙全体に広げることは原理的に不可能であると、全く見当違いの意見を不遜にも言うわけなのだ。しかしそれが可能であることは時計合わせが可能であることからも明らかなのである。

 相対論が導く多世界解釈の真の問題点は、多世界の理屈への一般的な反論からは見えてこない。たとえば私の乗る100メートルの宇宙船を50メートルと認識する別の宇宙船があるとして、それだけを考えるなら単純な重ね合わせだが、30メートルや70メートルと認識する運動体が宇宙には必ず存在する。ここでも重ね合わせは無限の数だけ存在するのであって、二者択一などではない。また、たとえば時計がいびつに見えるときの見え方はさまざまだが、これも無限であり得る。その見え方ひとつずつに多世界をあてがう必要があるとは、もしまともな語り方で事実が描写されるなら、誰も思うはずがないのだ。つまりそれは十円玉を種々の方向から見て、極めて薄い長方形に見えたり真円に見えたりすることと同様の、視点を変えれば違う形に見えるということのバリエーションにすぎないのだから。見え方ひとつずつについて別の世界線が存在する?

 十円玉が真円に見えるということの、相対論的な意味とは何だろうか。一つの視点に固定して、見ることのできる形を一つの世界として提示することだ。私の乗る100メートルの宇宙船を50メートルと認識する運動体も、30メートルと認識する運動体も、「仮に私がそのような宇宙船に乗って、今私のいる宇宙船を眺めることができたら、その通りの認識もあり得るだろう」と言うことができる。これは全く日常的な言語使用であり、かつ日常的な意味で理解しうるのであり、別の世界である必要はない。なぜならどのように見えようとも、私の乗る宇宙船が100メートルであることを私は知っているからである。そこを、実際にすれ違う宇宙船を持ち出して、彼は私の乗った方を30mと認識する、という形で論じるのが相対論の特異なエクリチュールなのだ。この語りの幻惑的な効果によって誰もが騙される、ということが単純なあらましである。

 同様に、相対論を展開する文脈の中でいろいろな時間の遅れ方が語られるだろうが、単純極まりない可能性の問題に過ぎない。可能性の問題とは、もし私がこのようにふるまうなら、あるいは相手の立場だったら、現実はこのように見えていた、あるいはこのように変わっていた、と論じることだ。これはこの世界が持つ可能性であって、他世界のそれではない。そして、私と世界の関係によって開示されるものであり、存在論的ではなく、認識論的な事実である。平たく言うなら、あえて他世界を要求しなければならないような代物ではない。

 ところで、短く見えるということは見え方の問題であり、相手方の情報を伝える光の速度が有限であることを考慮するなら、当たり前の現実として認められる。時間が延びるとはものそのものについての記述になるので、本来ならば字義どおりに受け取ることはできない。タイムパラドックスは論じられるが、物理的なパラドックスが論じられることはないということと軌を一にしており、相対論に基づく言説がいかに種々の先入観によって支配されているかを示すものであると思う。言うまでもなく相対論では二つのことがあいまいなままにされているので、区別がつかないのだ。

 多世界解釈は言葉の構造から出来上がるものであって、世界が本来持つ性質ではない。言葉が数式に置き換わっている場合に、誤解が拡大される恐れが大きくなる。「世界はこのようなものである」という言明に私たちはそれほど戸惑うことはない。間違っていれば指摘するし、部分的に正しい時にはそのように受け止める。言明が数式であるとき、論理的な正否が決定できるものと私たちはみなすだろう。もちろんこの場合に境界条件を求めるはずだが、相対論はおおむね宇宙論として出されているため、私たちは宇宙のすべての部分にかかるものと思わされている。しかしながらこの理論の実情を言うなら、一つの視点と一つの運動体とにおける、閉じた一次元の空間でのみ正しいのだ。したがって本来は必要のないところで別の世界を持ち出すのだが、それは別の視点による解にすぎない。別の視点であって、別の世界線ではない。

 そして、選択肢とは私が有意味にできることであり、意味は客観的世界には属さないものだ。端折った言い方をするなら、多世界解釈とはいくつかの物語を編むということになるのではないだろうか。物語とは、世界を意味の連鎖によって理解することだ。客観的事実に本来そなわった意味というものはない。人間が作るストーリーによって意味が生じる。

 つまり、宇宙そのものにとって選択肢という絶対的な分岐点は存在しない。それは、人がそう見るだけである。分岐は、例えば一時間という時間の中の、どの点でもあり得る。多世界解釈は、だから、無限が無限を生むだけの代物で、全く意味をなさない。