相対論では量子論と類似した議論がいくつか存在する。それはあたかもすでに正しさの保証された量子論をなぞることで問答無用にこの理論の正しさを印象付けるやり方ではあるが、わずかの検討でこちらの多世界解釈は成立しそうにないことが明らかになるだろう。そもそも、量子論がこのようなアクロバティックな理論を生む必要に駆られた、マクロ世界とミクロ世界の断裂は、相対論に存在しない。

 なお、すでに正しさの証明された量子論、という書き方をしてしまったが、私自身はそうは思わない。しかし相対論に批判的な書物を見まわしたところ、量子論に肯定的である場合がかなり目立つのである。憂慮すべき状況ではあると思う。なぜなら、それは科学に保証された神秘主義を保持しておきたいという気持ちが読み取れるからである。特に量子エンタングルメント、それによるテレポートは現実であってほしいというこだわりが、どうしても見え隠れする。相対論と量子論で不思議の扉を開けたいというはかない希望がうかがえる。

 相対論は多元的宇宙を認めることで成立する。こう述べることへの、いちばんの抵抗は、相対論はもっと現実的な理論であるという人々の先入観かもしれない。そしてその次に多世界解釈のどこが悪いのかという反論もあり得るのかと思う。様々な、主としてエンターテインメントを通じて多世界解釈は極めて通俗的な形で理解されており、その形では誰にせよ受け入れるのに困難は感じないだろう。今、通俗的な形と書いたが、では通俗的ではない形がありうるのかというと、そういうことでもないわけである。

 多世界解釈をたとえエンターテインメント風味を排してまじめに語ったところで所詮は空想科学小説的把握以上のものにはなるはずもなく、残念ながらこれを支持する学者たちの誰もが全く事実を理解できていないように思う。いくつかの例によって既に示唆してきたつもりだ。リゲルまでの距離は800光年である。しかし地球とリゲルのあいだを横断する移動体に乗った人の視点では、その移動体の速度次第で距離は変わる。たびたび述べてきたように、たった一人の他者を想定して「彼の視点では500光年である」というような語り方をされると、この考え方に何かしら意義があるように思えてしまう。しかし他者の視点が無限に多様でありうるのだとしたら、他者の視点で割り出した距離になどなんの意味もない。

 これが多世界解釈とどういう関係があるのか。そのような疑問があるかもしれない。すべての間違いの根源は相対論が一次元的の思考形態であることなのだ。私がある対象を一次元的にとらえるとき、これを現実的な姿で復元するには幾多の重ね合わせが必要であるからだ。どんなものでも多方向から見るべきであるという教科書的な原則論とこれは違う。ここで現実的とは最低限の日常感覚で見る程度に復元するという含みだ。遠くにいるので小さく見える人、あるいは早く動いているので人間の形に見えない人も、近づいてじっくり見るなら自分とさほど変わりない姿であることがわかる。いろいろな見え方は、あるいは表面的な矛盾を含むかもしれない。ではその矛盾は別の存在を、あるいは別の世界を設定することを要求するのだろうか。そうであるならば間違っているのは理論の方なのではないか。現実とは矛盾するかもしれないいくつかの見方による複合体だからだ。相対論による計算が見せてくれる結果は、「いろいろな見え方」の一つにすぎない。このひとつの情報をもとに現実の像を復元することは無理だと思われる。

 何度も同じ例を引くのは恐縮の限りなのだが、10光年の距離を光の4/5の速度で飛来する物体は6光年の距離を7年半かけて移動するのである。ではこの時点で目的地まで10光年と6光年という二通りの世界が存在することになるのだろうか。相対論はそれを肯定する。しかしこの6光年という距離を割り出した時空の結びつきによって、他の場所を見ることはできない。

 多世界解釈を支持する人というのは、常に、いくつかの選択肢の存在として世界をとらえているのだと思われる。しかし分岐は無限に存在する。「一つの選択肢」と思えるものの中に、無限の多様性がありうるのだ。さらに、分岐となるべき時点も、無限の数だけ存在する。もちろんそんなことで論者がひるむはずはないのだが、それはひとつには「選択肢」「分岐」という言葉の心理的なニュアンスのせいであると思われる。つまりこのことばで選ばれたルートは理にかなったものであるという含意があるからだ。方や「確率」と呼称した場合のもうひと方は、自由意志による別の選択があり得たという、全く異なる根拠によるものとしても。この感覚を抱くと、分岐が無限にあることに気づけなくなる。しかしこの感覚の方が間違っていることは明らかだ。

 例えば通俗的な選択分岐型ゲームや、タイムリープアニメのごとき内容で、人々は多世界を理解しているのであり、学者といえども思考レベルに違いはない。つまりあるイベントに直面して、その後どう進むのかという選択が来るのである。選択は自分の意志によるのかもしれないし、どうにもならない他律的な要因に左右されるかもしれない。しかしどちらにせよ大樹が枝葉を伸ばす如く、あるいは進化の系統図のごとく無数に枝わかれしてゆくのである。

 しかし分節点となるべきイベントなど存在しないと私は主張したいと思う。それは後付けで恣意的に切り取った一断片にすぎず、前後と切り離して独立の存在を持つことはない。イベントというものが人間的感情による創出物なのであって、この意味では世界は何事もなく平坦に経過してゆく。すなわち、たとえば惑星に大きな岩塊が衝突することがあったとして、本当は衝突する前の長い平穏な期間のどこを切り取っても世界にとっては衝突の瞬間と変わりのないイベントとしての瞬間でありうるのだ。そしてまた、私たちは惑星と岩塊という二つの空間占有物に特異な意味を見出しがちだが、そこを外した、何もない虚無の空間が重要なのかもしれない。そういう感じ方をする生物がいるかも知れないではないか。

 まず、自由意志は存在しない、ということを言いたいわけではないことは理解してもらわねばならない。もちろん自由意志の存在を否定できるなら、選択肢と思えていたものが実はそうではなかったということになるので、可能世界のいくつかは消えるだろう。だからと言って、一つを残してすべてが消去できる、などというつもりはない。あってもなくても関係ないのだ。私たちが有意味にできることが選択肢として認識され、それ以外が無視されるわけだが、これが正しいと言えるためには私たちが世界の理法をことごとく把握できているという前提が必要なのだ。これはあるいは言い過ぎかもしれないが、世界についての知識が増えるごとに他律的な可能性も自律的なそれも増加するのは間違いないことである。自律的な方はともかく、他律的な部分について私たちの知識とは別に、既に可能性として存在しているものだろう。

 この点での議論はあり得る。新たな知識が得られるまで、その知識に基づく可能性はあり得ないという形になる。しかし新たな知識が得られる可能性は、予測不可能なものであり、これ自体が無限の選択肢となりえる。現代においては、空間的思考における極小から極大までに及ぶ似たパターンの再現、時間的思考における進化論など、あたかも創出性の部分まで科学的に理解可能な装いの理論があふれかえっているが、それらはすべてアナロジーの一種であり、世界を総体として科学的に把握できるという満足感を人に与えるものではあるが、すべて後付けのもっともらしさを説得力としているにすぎない。世界はこの瞬間にも全く新しい、以前にはなかった何かを創出し続けており、それは以前にあったこととどこか似たパターンで認識されるとしても、全く同じではありえないのだ。人はマンデルブロー集合の図が単純な式からどこまでも複雑化してゆく様子を見て驚嘆するが、どんなに複雑化しても、開始時点で3次元にすることを意図しない限り3次元の存在になりはしないし、いつの瞬間からか生命を持つということもあり得ない。つまり人々が称賛するほど複雑な代物ではないのだ。計算できるということは予測が可能ということであって、人知の及ばぬ不可思議が現出したような態度は素人を威嚇する小芝居であると同時に、願望の見せる幻影ででもあるのか。しかしいかに入り組んでいるとはいえ、たかが平面図ごときに宇宙の神秘が顕現しているかのような態度への同調を強要する科学者たちの態度はいかがなものかと思うのみだ。

 既に指摘した通り相対論でいくつかの解がある場合に、それは解の数だけの世界、別の存在があるのではなく、重ね合わせの存在と理解されねばならないのだ。この時、いくつかの重ね合わせと考えるから、私たちの体験が全く単独のものであり、重ね合わせとは無縁であることが理屈で回避できるような気がする。しかし重ね合わせはいかなる場合にも無限の選択肢の重ね合わせなのである。もともと厄介な矛盾なり、理論的な破綻があるから平行世界という解決に逃げるのだろう。平行世界が数個程度ならば縋ってみることも悪い選択ではないかもしれない。しかし無限の数となると、この固定された一つの世界で合理的な解決を探ることと、無限にある選択肢の連続の中からなぜこの私の世界だけが体験されるのかという問いへの答えとは、単純に数字を比べるという意味での合理性において選ぶ余地があるものとは思えない。多世界解釈を必要とする理論はたいていの場合語り口によって選択肢が有限であるかのように装われていたので、多少とも説得力があるような気がしていただけのことだ。

付け加えて言うなら、後者は原理的に回答できない問いではないだろうか。前者は「現にこうである」を確認するために「こうではない場合」を想定する方法を探ることができるが、後者は「私は現にこの世界を生きている」と何の根拠もなく言うほかはない。間違っているという証明はできないので、主張を押し通すことは可能だが、理論にはならないのである。