ところで、「シュレディンガーの猫」に対するペンローズの解釈の最後のほうで非常に印象的なフレーズが出た。いわく「猫の死と生の状態が互いに干渉しあっている」。もちろんすでにお分かりのように、猫はすでに死んでいるか生きているか、なのだから、生と死が干渉するなどということはあり得ない。だが錚々たる科学者たちがこの生と死の干渉という魅惑的な観念につられてしまう。何度も強調するが、半分死んでいるとは身体の半分が毀損されているとか体が半分程度弱っているとかいうことではない。

 これもまた先に私の意見を書いておく。猫を一匹ではなく、百匹用意してこの残酷な実験にかける。すると、もし計算通りなら大体半数がかわいそうな結末を迎える。つまり、これは抽象的な統計的事実であって、個々の猫はもちろん死んでいるか生きて箱を出てくるかである。この計算的な事実を一匹の猫の運命として語っているに過ぎない。そもそもだ、シュレディンガー方程式に1か0の数値を放り込んで生か死かの計算ができるとか、冗談ではないか?

 これも例によって生と死の両極端が数値化されているわけだが、光子の経路をさらに分岐させ、0.5パーセント死んでいる状態とか1/3の生きている状態とかを想定することも可能ではないか。すると、全く訳の分からない状態になりはしまいか。

 以下は少しばかり傲岸不遜と感じられる書き方になるかもしれず、何様のつもりだよと言いたくなるかもしれないが、その点はご容赦願いたい。私はこれでこそ徹底的に一般人目線での語り方であり、庶民の側であるという強い自覚を持っている。私がまず言いたいのは、権威を恐れず、自分の頭で考えようということであり、そのことだけは一貫させてゆきたいのだ。「量子論を理解した気になって文句をつけるなんて相当に頭が悪い」という人には、なぜそれを正しいと考えるのか、逆に聞いてみたい。本当に理解しているのだろうか。わかってはいないけど、あまりにもたくさんの偉い人が正しいと言っているから、正しいはずだと信じているだけではないのか。もうそういう時代ではなくなるのではないだろうか? 情報があふれているということは、逆にいいように情報で操られる危険も高まるということなのだから。

 専門家が私をばかにするのは、まあ当然だろう(もし意見を聞いたらという話であって、もちろんそんな機会すらないわけだが)。しかしそうではないなら、立ち止まって考えるべきだ。「シュレディンガーの猫」が解きがたい謎であるのは、絶対に正しいことを言っているはずだという、量子論全体に対する、過度の信頼の結果ではないか。日常生活においては、わからないことを分かっているつもりで進むことはある程度の必要悪ではある。しかしこんな現実離れした問題に、そんな習慣を持ち込むことはない。私の信念は、どんな難解なことでも語り方によって、もっと多くの人が理解できるはずだということなのだ。

 まず、おおざっぱなところから行きたい。シュレディンガーの猫が提起している問題とは、今まで一個の極小物質と思われていた電子や光子、その他の基本粒子が、実は波動の性質をも併せ持つということの不思議さ、矛盾点ということになる。「猫は波動などではない、もし波動であるなら生きた猫と死んでいる猫の重ね合わせという不思議なものを我々は見ることになるが、絶対にそんな存在はあり得ないよ」ということがシュレディンガーの言い分だった。これは推測だ。本心は違うかもしれない。

 ほかならぬシュレディンガー方程式の考案者がこんな奇妙な思考実験をこしらえたのだ。これは何となく不思議な行為であるように思える。つまりおのれの考案した決定的な成果を論争の種として危険にさらすような挙に出たように見えるからだ。

 彼はシュレディンガー方程式の扱われ方に不満があった。現在まで続く素粒子論の主流派はいわゆるコペンハーゲン学派ということになる。細かな意見の違いが内部にはあるだろうが、一つの大まかな総意は、単なる波に過ぎない存在がなぜ物質へジャンプするのかということについて議論しない、ということになろうか。つまり波動関数は実験結果を記述するのに適してはいるが、物質波などというものはないということであっても差し支えない、という考え方をする。何しろその数式には虚数iが入っている。2乗して初めて現実的な回答が与えられる(すなわち実体化する)とはいかなる存在なのか、だれにもわかるわけがない。だからその部分についての形而上学的論争をしないということである。

 シュレディンガーはそういう見解を中途半端と感じた。「いや、物質波は確かに現実的なものとしてあるのだ、ちゃんとそういう線でおのれの方程式を理解してくれ」と要求したのだった。

 これは普通だったら藪をつついて蛇を出す結果を招いても仕方がない。しかしそうはならなかった。シュレディンガーには勝算があったに違いない。なぜなら方程式にはプランク定数のディラックによる変形(ħ)なるものが含まれている。そしてディラックの場の理論とは、ほかならぬ特殊相対性理論によってプランクの方程式を組みなおしたものなのだ。すなわちアインシュタインがおのれの側に付くであろうことが十分に期待できるのである。これを実在論的な解釈とプラトニズム的発想の違いとか、真実への情熱だとか、いろいろに言う人がいるが、私は単なる党派的な争いであり、シュレディンガーはおのれの方程式を神の座に祭り上げたかったのであろうとしか思わない。

 事実は彼の期待通り以上の成果を収めた。つまりシュレディンガー方程式を疑問に付すような解釈は全く現れず、物質の側、つまり猫の実在性をあれこれいじくる方向へ進んだからだ。かの猫は箱の中で無数の波として、箱いっぱいに充満しているはずなのだった。しかし箱を開けた途端、ちゃんとした生物として姿を見せる。

 現在いろいろなところでパラドックスの解決と称するものを見ることができる。一般向けの新書などは、量子論がいかに不思議な世界観を見せてくれるかということを強調したがる向きがあるので、初めから期待できない。幼い人が好奇心を起こして科学の道を選ぶかもしれないということであれば、これもよい方法だとは思うが、謎の答えはそこにはない。ネットで漁れば、またさまざまなもっともらしい意見を読むことができる。たぶん、だまされる人も多いと思われる。しかしそれらは例外なく、問題を矮小化している(どう矮小化しているかはまた難しい話を含むので後回しにする)。

 それらは物質の側について、いかにそれが分解可能かと論じるものばかりであって、シュレディンガー方程式を絶対確実な真理として疑うことをしない。いや、検討した結果が真理という回答であってもよいのだが、せめて公平に、疑ってみてくれよと言いたくなる。その手順が抜けているから、私ならずとも、納得できたという爽快感が得られないのではないか。

 なぜならば、だ、どんなに現代の実験技術が進んでいても、波束の存在としての、多数に分解した電子、光子などというものを、作ることはおろか、見ることすらできないからだ。猫だから波束としての存在に無理があるということではない。ミクロの世界にもそんな面妖なものは、ありはしないのである。私たちは物質としての猫しか見ることはできないし、それ以下の存在も人が観測できるものである以上は何かしらの塊として姿を見せている。虚数などというものではない。

 以下の文章を理解できるだろうか。もしくは、何となくわかった気になれるだろうか。特に前半部分。

“量子、例えば光子や電子はひとつの塊として我々は認識するが、実は物質波の束である。その物質派の状態を表現する計算式がシュレディンガー方程式であり、その中の項ψを波動関数と呼ぶ”

 後半は用語の定義だからわからなくても当然として、私は残念ながら前半もわかった気になっていた。あとあとで、わかった気になっていただけだと気づいた。

 これは、勉強して深く理解したら、以前の自分の理解が不十分であると気づいた、ということではない。いや、半分はそうなのだが、「光子や電子はひとつの塊…であるが、実は物質波の波束である」という文章は全く意味不明なのである。ここは一応慎重を期して、もっと量子論を勉強したら、わかってなおかつ信じる、という状態に移行するかもしれないと言っておきたい。そうは思うものの、たぶんそうなる見込みはない。つまり自分が理解できる範囲で言えば矛盾であり間違っていると思う。なぜなら猫が波動であるとはとても思えないからである。くねくねとした動きは液体のようでもありその意味で波であると言えなくもないが、それは言葉の本当の意味で波束であると信じていることとは、もちろん違う。

 最先端の理論とは、はっきり言って単なる思弁の世界ではないか。つまり彼らが日ごろ見下したがる文学的な表現に満ちた世界なのである。ただしそこにいかにももっともらしい数式がついている。古代のタレスは、万物は水からできていると言った。万物は波動からできている。これは、同じ程度の空想的形而上学ではないだろうか。四つの気からなるでもよい。理解できないことはない。しかし現実的な意味として理解していると言えるのかどうかは不明だ。

 現代はミクロの世界をそのまま体現したかのような機械に囲まれた日常を実現している。そのことで多くの人が、量子論は正しいという強い先入観を持たされている。これはひょっとすると勘違いかもしれない。それは例えばGPSシステムに相対性理論が使われているという都市伝説と同じ、一種のプロパガンダである。防衛大学の卒論のテーマとしてGPSを扱っている文章(あるいはどこぞの外国の大学でもよいが)を読むことができるはずだが、相対論の影も形もそこにはない。入り組んだ数字は、すべて積み重ねた技術の結果であって、思弁的な要素は全く見当たらない。

 理論物理学という一大分野は、科学も技術も飛び越えた、全く別の学問体系なのかもしれない。私はそのことにネガティブな意味を込めるつもりはないのであって、人の性質としてあってしかるべきものだ。将棋やスポーツと同様の、一種のゲームであっても何ら問題だとは思わない。しかし量子論という理論が先にあって、そこからさまざまの機器が生まれたということではない。ICチップも、レーザービームも、スマホも、全く量子論とは無関係に誕生したのだから。

 たとえば、レーザー光について調べようとすると、少なからぬ割合の文章が、まず量子論を頭にもってきて語りだすだろう。ウィキを見ると、歴史的遷移ではまずアインシュタインの名が出る。ついで技術者の名前が並び、ほんの付け足しとして、名だたる量子論の大立者がメーザー(当時レーザーはこう呼ばれていた)は不可能であると論じていたことが紹介される。だがなぜ不可能と思われていたのかはこの記事からはわからない。こういう情報に接すると、だれだってレーザーの開発は量子論のおかげだと思わざるを得ない。

 しかしなぜ当時の量子論の研究者、ボーアやフォン・ノイマンらが不可能であると言ったのか。それはボーアの定理に反するからだ。すなわち、原子が吸収および放射することができるのは、定常軌道自体における電子の運動エネルギーの差と等しい共鳴エネルギー単位量のみであるという定理が存在するのである。

 もし原子の放射・吸収が正確に共鳴周波数(エネルギーは周波数のみで決定されるという別の定理が存在する)においてのみ行なわれるのだとすると、それらの原子は平衡放射熱交換には関与できないし、また原子ごとに電子の定常軌道が異なるということは、それらの共鳴エネルギーが正確に一致することはないのだから、分子は存在しないはずなのだが。

 もちろん間違っていたのは量子論の側であり、幸いにも、レーザーは開発された。しかも一部のレーザーはフラッシュランプ(ローマの休日などで、カメラマンが使っているやつ)による広帯域ポンピングが用いられていた。すなわち、共鳴放射は、レーザー遷移エネルギーよりも大きいエネルギーを持つ非共鳴ポンピング量子を吸収することで発生する、と考えてよいことになる。これはどういうことかというと、フラッシュランプは現代のレーザーとは違い、太陽光に近い、あらゆる波長を含む光を発する。量子論としては、こういう光源からレーザー光が出ては困るのだ。現代のレーザーは単色光を一つの素材に当てる。このような形だと、まさに量子論のいうことでつじつまが合ってしまうのであるが、それはさすがに後付けというものだ。

 エジソンは電球を発明したが、電子一個の電荷が1.602176634×10^-19クーロンであることを知っている必要はなかった。また、原子内における電子の軌道がどうのこうのという知識もたぶんなかっただろう。必要だったのは、太い導線の先に、もっと抵抗の強い細い導線を取り付けて電流を通してやると、細い部分だけが発熱し、光りもするという全く経験的な知識だけだった。それをもとに数千回の実験の末、日本の竹が最良であるという結果にたどり着いた。

 ジョブスもゲイツも、恐らく量子論など知らないだろう。すべて技術とはそういうもので、濁酒に灰をいれたら清酒になるのも、海水を煮詰めて塩を取った残り滓をつかえば豆腐が固まるということも、理屈は後からついてくる。二十世紀は特に科学技術が加速した時代なので、いわゆる理論物理学という思弁が技術に追いつけないことも、ある程度致し方ない。

 今、不確定性原理やプランク定数などという存在がまともに論じられているのは、宇宙論と、それからリニアコライダーみたいな加速装置の中で何が起きているかについて議論されるときのみだろう。そこは全くのところ相対論と同じで、正しいか正しくないかということは、経験的には全く明らかにできないことなのである。つまり私たちの生活を豊かにする様々な技術を牽引する力はもう持っていないと思われる。もし、最先端技術が量子論や相対論のフォーマットで語られる例を見ても、すぐに飛びつくべきではない、と私は言いたい。どうにでも語れてしまうからだ。もうこの部分はゲームの領域なのではないか。