すこし煩雑ではあるが、いわゆる観測者問題はあまり意味をなさないということを考察しておきたい。観測者問題とは、確認する人(意識?)が介在しない限り、事象は確定しないという意見である。これは「シュレディンガーの猫」がサブカルチュアでクリシェのように使われるときのニュアンスを持つ。たとえばミステリで、洋館で一人足りなくなったが死体が見つかるまでは実は事件は起きていなかったなどという、さすがに冗談半分だろうが、そういうセリフもある。ただ、思うに、これとシュレディンガーの猫は、ばからしさにおいてほとんど同じではないか?

 少なくともこのパラドックスが関心を持たれる理由のいくらかは、この観測者問題がよくわからないからだと思われる。心得ておくべきは、深い意味があると思わされているからわからないと感じるのであって、自然現象なんてものは人がいようがいまいが進行する、という大前提を忘れないことではないだろうか。フィクションの中で使われるから冗談と分かる。偉い人がそろいもそろって意義深いとするたとえ話はなにか深刻な意味が潜んであるような気がしてしまう。

 シュレディンガーの原案ではブラックボックスの中に猫を一匹、そして箱の中身を観察できない人を一人置いた。これに対し、ペンローズがThe Emperor's New Mind、(皇帝の新しい心)で、もう少し込み入ったモデルを提示している。私がこのパラドックスを知ったのがこの本だった。

 シェルター並みに密閉された部屋を用意する。例の装置と猫を入れるのは同じだが、部屋には、防護服を着こんだ目撃者を用意し、もちろん外にも全体の見届け人をつける。

 わざわざ目撃者を用意するなら、ではガイガーカウンターがあればそれでいいのではないかとか、猫ちゃんにも防護服着せろよとか、猫型ロボットでいいんじゃね? とか言いたくなるが、演出として実は多少意味があるのだ。多くの科学者が、猫の生と死が干渉しあう状態というストーリーを語っている。ガイガーカウンターが鳴るかどうかのせめぎあいでは、インパクトがないが、生と死とくれば大変もっともらしいではないか。本当に、その程度の意味しかないと思う。

 観察者が問題になるというのは、確率の波が現実のこととして収束する瞬間がいつのことなのかを明らかにすることが解決の手始めと考えているからだろうか。つまり、猫の生死が明らかになるのは室内にいる猫の同伴者(A)が目撃するときなのか、扉を開けて室外の人(B)が確認するときなのか。不思議なのは、ここで多数の科学者が、Aが猫の生死を知った時間でも、Bが知らないとき、猫は生きているわけでも死んでいるわけでもない状態であることを前提として受け入れているということだ。それを拒否することは決定論を受け入れることであるということがその理由であるらしいが、これはさすがに真実らしくない。真実らしくないというだけでは反論として足りないように思えるが、人の、単なる見方によってここまで現実側に違いをもたらすという解釈を受け入れることが、この説明の意味するところであるから、恐らく意識についての、そこまでの現実介入は、科学者としては認めないはずであるということを、先回りして言っているだけである。

 しかしここで真実らしくないと思う人でも、もしAが実験に参加せず、外のBだけが目撃者であるとすると、扉を開けたときが猫の生死を決定する瞬間であると言ってしまう場合もある。この二つの立場は同じだ。前者が真実らしくないのであれば、全く同じ理由で、後者も正しくない。もしAが猫の生死を確認できるのであれば、外にいるBに与えられる情報は問題ではない。もちろん猫の状態にこの情報伝達が変化を与えることはできない。ではこの同じ実験が、Bのみを立会人として行われた場合はどうか。常識的に考えて、扉を開ける前にすでに決まっていた、と考えるべきだ。多くの人が私と同じ認識であってほしいと思う。というのは、この部分のことだった。つまり件の科学者はここで、参加者がAだけの場合とBだけの場合とで、猫の不確定状態の時間が変わると認めている。そしてその理由を観察者の有無に求めるだろう。だが観察とは何を意味するか。

 ところで、こういう込み入った話になると、まずは大前提に戻るべきなのだ。すなわち観測者問題はあってはならない、「なぜなら、そもそも自然は原則としていかなる観測者もなしで自立しており、しかしそれでもいろいろなことが進行しているからだ」ということ。人がそう認識するまでは地球というものは存在していなかった、宇宙もなかった。この言い分がまともであるか? どういう理屈があり得るだろうか。

 ペンローズがなぜこんな新奇な道具立てで語ったかというと、そこにも面白い理由がある。設定は上に述べた通り。核シェルター並みに密閉された部屋を用意する。例の装置と猫を入れるのは同じだが、部屋には防護服を着こんだ目撃者を用意し、もちろん外にも見届け人をつける。そして彼はなんと、シュレディンガー方程式を出して、二人が何を目撃するかを計算で出そうとするのだ。ちなみに、その方程式は、

iħ∂/∂t|ψ〉=H|ψ〉

 という形をしている。理解する必要はない(なぜ理解する必要がないかというと、彼は計算したうえで、それよりも当たり前の直感に戻るからである。つまりその検討は結局無駄であると言っている。とりあえず、こういうにぎやかし芸と思って、読み流してほしい)が、せっかくだから記号の意味を書いておく。ψは波動関数であり、ここに入る数字が存在確率を表す。それを囲む縦棒と「く」の逆のかたちは、ケットベクトルと言い、ある微視的物理系のある物理的状態を示す。つまりここでは光子の一粒がいかなる状態にあるのかを記述している。数字は波動関数で計算され、0から1まで変化し、たとえば|0.5〉ならば、50パーセントの確率である、ということ。シュレディンガーの猫は、生死の確率半々の状態の話をしているので、ここに入る数字はいつも0.5になる。

 ⅰは言うまでもなく虚数。∂/∂tは、ψの変化の速さを言う。ħはh/2πの意味で、hはプランク定数だが、ħというのはそれをディラック方程式で変換した形。右辺の大文字のHはハミルトニアンというもので、系全体のエネルギーを特定の座標系によらない一般化座標上で表現している。どういうものを対象として扱うかで、いろいろな計算式がここに入るわけだが、量子論ではiħ∂/∂tという式になるよ、ということ。

 数字は0から1まで変化し、たとえば|0.5〉ならば、50パーセントの確率だ、と述べた。これを猫に当てはめると、猫が生きた状態であればψ=1であり、死んでしまえばψ=0になる。ただし量子論では、光子の場合0.5どころか、どんな数字でも入りうるが、猫は1か0でしかありえない。これが「シュレディンガーの猫」のパラドックスの正体である、と言われると、何だかいろいろな理屈が可能であるように見えてくるだろう。だがここで怖気づいてはいけない。

 さて、ペンローズのシナリオでは、発射された光子が、半メッキされた鏡に当てられ、そのとき(光子そのものではなくではなく)光子の波動関数は二つに分岐し、一方は鏡に当たり、センサーに向かう。センサーが感知したのなら、光は「反射された」のであり、感知しなかったのなら光は透過したのだ。これが室内の人が見ること。(ここで見逃してならないのは、結果が先取りされて、波動関数の状態が後付けで述べられることだろう)。そして、以下のようなことが語られる。

「室外の者は、全体の初期ベクトルをすべて知っていると仮定される。光子はあらかじめ定められた状態で光源から放出され、その波動関数は二つに分解し、光子がその各々にある振幅はたとえば1/√2である(したがって2乗すると、1/2の確率が得られる。シュレディンガー方程式に虚数が含まれていたことの意味)。これらのことは、室外の者には単一の量子系として扱われるので、選択肢の間の線型重ね合わせは猫に影響を与えるまでずっと維持される。センサーが光子を記録する振幅は1/√2であり、記録しない振幅も1/√2だ。両方の選択肢もその状態の中に存在し、量子的線型重ね合わせの中に同じ割合で含まれている。外部の観測者によれば、猫は生と死の状態の線型重ね合わせのままである」

 こういう、何となくわかりそうでわからない記述が続いた後、室外の者の線形結合、|ψ〉=1/√2{|死〉+|生〉}は、室内の人間にとってはすでに無意味である以上、結局意味がなくなるのではないか、状態ベクトルなんてものは心の中にしかないのではないか、と言い出してしまう。

 何のことはない、わざわざ量子力学の複雑な計算を持ち出さなくとも、常識的な言葉で考えた結果と同じなのだ。すなわち、すでに死んでいる猫(あるいは生きた猫)についてあれこれ述べても、それは空理空論というものなのだ。

 そのことにちょっと未練がありそうに、室外からの何らかの実験関与によって、内部の状況に変化を与え、|死〉か|生〉の二択に導く方法がないものかと考察し、それはあり得ない、なぜなら要するに猫の死と生の状態が互いに干渉しあっているのだから、量子論ではその中間の答えしか出ない、と結論する。

 この後、これまでに出されたさまざまな解釈の紹介に移ってしまうのだが、その中には有名な多世界解釈とかファインマンの経路分析、フォン・ノイマンの行列密度などが含まれる。これらに対してペンローズは正直に「あまり信じられない」という。理論的な反駁ではなく、要するに、そんなこととてもありそうにない、という素人の感じ方と大差ない。でも、大事なのはそれなのだ。当たり前の大前提を、複雑極まりない理論によって見失ってはいけない。

 ペンローズの出した結論を、一応述べておこう。「量子論には根本的な改革が必要であるように見える」だ。ジョン・ホーガンの「科学の終焉」で、マレイ・ゲルマン(量子論の大立者)がペンローズをくそみそにけなしていたような記述があり、読んだ当時はわからなかったが、なるほどこういう裏があったのかと改めて知った。この点ではペンローズのほうが誠実で正しいのではないだろうか。マレイ・ゲルマンの知識はさすがに薄っぺらとまでは言わないが、その傲慢さで大切ななにものかが欠落していると思う。ホーガンの前出の本では「界隈きっての切れ者にして機を見るに敏」という評がついている。とてつもなく深い皮肉が読み取れる。