パラドックスの明快な回答、すなわち誤解のありようはいかなるものかを考えるに当たって、先に述べたところのいわゆる半分だけまともな著者の用意した答えを考えてみるのがよいかもしれない。そこに典型的な錯誤のいくつかが見て取れる。

 仮想空間内のパズルとしての双子のパラドックスについては、答えは単純だろう。相対論において時間の遅れは常に光速度と物の移動速度の差から求められる。したがって、動いてさえいれば問答無用で時間の遅れが生じることになっている。いつもパソコン横書きのわかりにくい表記なので普通に書くと、こんな風。まあ私が普通の文章にこういう式を書き込む方法を知らないので絵として貼り付けるのだが。

 数式を細かく分析する必要はない。ここで言いたいことは、このように数式で書いてしまうと、方向が消えてしまうことだ。

 しかしそれは大変おかしな話で、もともとは動いていようがとまっていようが、どちらにとっても光は同じ速度で飛んでいるように見えるということを正当化するために時間を操作したはずなのだ。では、光に向かっているときと、光が後ろから追いかけてくるときは別の時間軸を用意するほかないはずではないか。もし、自分の進行方向と同じ向きに進む光に対して、自分に時間の遅れが発生すると言い得るなら、逆向きであれば時間はより速く進むのでなければつじつまが合わない。

 そうだとすると答えは単純で、地球から宇宙船が飛び立ち遠ざかってゆく際に、互いに相手の時間が遅くなると認識するのであれば、地球に帰還する際には、近づく互いの時間は早くなる。ミンコフスキー空間において、未来の部分は原点から単調に遠ざかる動きしか書き込めず、遠ざかることが時間の遅れてゆくことと一体となっていた。そして過去の部分には原点に単調に近づきつつある動きしか書き込めない。もちろん時間が速くなることと一体なのである。

 先に、仮想空間内のパズルと書いた。つまり上のことが解決でありうるためには「時間が遅れる」ではなく、「時間が遅れるように見えるだけ」である必要がある。そのうえで、遅れるように見えていたが、実際には同じ時間が流れていた、という結論になるのだ。

 宇宙船が戻ってくるからパラドックスが解消されるのであって、戻ってこない場合にはどうなのか。時間の遅れは続くのではないか。そうであるならパラドックスはパラドックスとして残すべきであり、それが宇宙というものの神秘を表しているのではないか。そういう反論はあり得るのかもしれない。そこから先は多世界解釈をどう評価するかということになるだろう。

 相対論の側からのパラドックス解決例を見ておいてもよいかもしれない。もっとも有力視されている一つは、たとえば出発時と方向転換の際の加速度の変化に注目することだ。加速度は一方的(つまり絶対的)であり、だから動いているのは宇宙船のほうであることがわかるとされる。この加速度をさらに微少加速度に分解し、そのたびに時計が遅くなると付け加える書物も散見される。

 この意見の論拠は、地球に残る側は宇宙船発射の際の加速度を体感しないということに尽きると思う。加速度をいわば絶対化している。しかしそれは単なるイメージではないか。言うまでもなく宇宙船がとびたつときの加速度は地球に残る側も体感している。加速度はこの場合でも相互的である。ただし宇宙船対全宇宙という桁違いの質量比率によって体感ということがほぼ無意味にされているだけなのだ。エネルギーを消費しながら飛ぶということで、いかにも加速度が宇宙船側のものであると感じるなら、打ち上げの際宇宙船に積んだ燃料ですべてをまかなうことにするか(それなら従来通りの感想になるかもしれない)、あるいは地上の発射装置にすべてを任せ、あとは慣性だけで帰還まで完遂できるように工夫するかの違いを考えてみればよいのだ。まあ、できないのだろうが、思考実験として宇宙船が全くエネルギーを使わない状態もあり得る、という想定だ。この場合は、エネルギーを消費した発射装置の据え付けられた地球が加速したのであり、宇宙船はその反作用によって反対側にはじき飛ばされたと言ってもよいわけだろう。加速度も明らかに相互的であり、エネルギーの消費を無視して、たとえばスクリーン上に描いた映像で地球と宇宙船の関係を検討してみることで十分なのだ。つまり相対論の出発点が幾何学的な発想に従っているように、単純な幾何学的処理で足りてしまう。いや、そうではなく、むしろ単純な幾何学的処理すなわち図面上のことでなければ相対論は成立しないのだ。加速度による双子のパラドックスの説明は誤解を誤解で上塗りしているという結果しか見えてこない。相当に迂闊な話だ。なぜこんな簡単なことに気づけないのかと言うと、相対論を理解できないという人たちに対する侮蔑感が科学者に根強くて、だからむしろ自分の側の間違いに甘くなるのだと思う。見下す気持ちでいると異論を端から排除する気持ちが勝ってしまうものだ。繰り返し言うように、相対論に対しては「理解できない」が正しい反応である。

 相対論を論ずる学者たちのもっとも陥りがちな考え方がここに表れている。つまり、物事を自分の属する系と対抗する系の二つに分けて、一対一の関係をしか見ないことである。

 今、二つの系に分けて、と書いたのは、少し正確に表現しすぎた。系というものを相対論の学者はそれほど明確に考えているわけではないからだ。考えているように見せかけているが、かなり漠然とした指示語にしかなっていない。等価原理の思考実験の際に、エレベーターの箱内と箱外の空間を分けて考える迂闊さにそれは表れているのではないだろうか。あれは、外からの視点と内部の視点の、都合の良い部分だけを取り上げて不思議を演出していた。日常的感覚なら空間を分けても、独立した系を任意に想定しても、結局は正しい結論に至り得るのだが、相対論では必然的に間違う。彼らの側は日常感覚のままでの言語使用は許されないはずなのだ。

 ただし時間に関しては事情が複雑であることは間違いがない。たとえば地球を飛び立った宇宙船が仮に光速度を超えていたとして、戻ってみたら日本は昭和の時代だったという途方もない話があったとしよう。どうやら40年ほど遡ってしまったようだ。しかしこの場合、時間を逆にたどったのは自分なのか地球なのか。すぐには答えられないだろうし、答えるにしても、裏付ける理屈が必要だと感じるのではないだろうか。つまり時間の進み方が過去へ向かうか通常のままかの二通りあり、それを私と地球のどちらかに割り振るかの選択肢がさらにある。地球が遡ったと考えることは、実は宇宙全体が遡ったと言うに等しく、逆行したのは自分の方である、と考えるのが正しいように思えるがどうだろう。しかし私が時間を遡るとは、私が一人若返るというのが正しい表現ではないだろうか。ただし少なくともそれは「作り話ではない、事実の体感」としてはあり得ない。それはつまり世界の動きを逆回転として経験することだからである。この想定はすぐに、では普通に暮らしているこの瞬間私たちは実は逆転した時間の中にいるかもしれないのだが、それを自覚しないだけなのかもしれない、という訳のわからない反事実的仮定を呼び込むことができる。体感として時間が順行すること(これも変な表現だが)に全く意味がないことになってしまうだろう。

 それではやはり、自分の体験の日常性だけは保存し、地球に戻ってみたらそこが過去の世界であったということが、唯一の納得できる解決なのだろうか。それは感情移入の可能な答えを求めているだけで、理論的な整合性とは別物であるように思える。たとえば、それはどのような経過で実現するのだろうか。私が地球を離れる。動くのは私を乗せた宇宙船のみであって、宇宙の他の部分はすべて地球に対して静止しているとする。私は道中、40年前の姿に戻りつつある宇宙を眺め続けることになるだろう。それがどのような光景になるかはわからない。おそらく宇宙空間のことだから目に見える変化などないのだろう。しかしこんな空想の細部まで現実的である必要はなくて、人間の尺度で十分に読み取れる変化を伴って時間の流れの指標となる天体がそこかしこにあると仮定してやればよいのだ。地球に戻った瞬間、突如として40年巻き戻るのでないならば、私は旅の間中刻々と若返る宇宙を見続けることになる。これはいかにもSF的で、まったくもって現実的ではない。宇宙全体が若返り、私という極小の物体一つだけが普通に時間を消化するという途方もない空想を否定するためには、やはり私の時間体感の順行性を捨てるしかないのだ。

 ひょっとするとその途方もない空想の方を肯定できるという人もあるのかもしれない。しかしそれは別の場所へ移動しながら風景を眺めるという日常経験のようにして宇宙の若返りをイメージするのであり、時間についての思考ではなく、もっともらしい日常感覚をアナロジーとして使っているにすぎないのだ。