ここまでの要旨は通常の時間概念における過去、未来と、相対論による過去未来との間に食い違いがあり、相対性理論の側こそが実はその違いをうまく把握できていないということだった。相対論の時間概念は本当のところ通常の時間感覚に全く依拠しきっており、せっかく独自の定義を与えながら、それを守ることができていない。従って通常感覚の時間と相対論的時間との違いを見逃している。

 したがって、パラドックスを理解するためには通常の、当たり前の時間感覚で語ることが正しいのだ。相対論が難しいと感じるのは、その内部の思考からとらえようとするからであって、当たり前の時間感覚の枠で語れば、矛盾なくまとまるのである。

 ここでもう一度出発点でのパラドックスを確認しておきたい。高速で動くものはその外で静観する私たちに比べて時間の進みが遅く、進行方向に対して長さが縮み、かつ質量が増す。これを相対論の相互的であるべきという要請に従って考えるなら、その高速で動く側から見るとき私たちのほうが時間の進みが遅くなり、進行方向に縮み、重くなるということになる。そして主流の科学者の意見では、私たちに時間の遅れその他の自覚がないのは、たとえば単に主観的な見方にすぎないからということになるのだろうか。つまり事実がもともと矛盾含みのものであるのだから、それに文句をつけるよりも自然の不思議に讃嘆しておけということになり、じっさいに科学者は相対論の不思議な帰結を手放しで宇宙そのものの神秘としてきた。

 ここまであからさまなパラドックスを内包した理論は、間違っている、と結論することがもちろん最良の選択だろう。奇妙なことに科学者はこれをかたくなに拒否する。では、このパラドックスに対し納得のゆく回答を与えるのでなければならない。たとえば速度によって質量の増減があるとして、銀河系に対して光速度以上の相対速度を持つ、いわゆる時空の地平線(宇宙が膨張しているとすると、遠くの銀河ほど高速で遠ざかっていることになる。すると、ある距離から向こうは光速度を超えることになる。その境界線を時空の地平線と称する。その、)外の領域が存在する以上は、そこの住人からすると私たちこそが光を超える速度で遠ざかっているわけなのだ。この地球ですら無限大の質量をもたねばならず、したがって私たちはブラックホールの内部に生活しているとしても間違いはないはずである。なぜそうなっていないのか。自覚がないだけと言って済ませられることなのか。もしこれを空間の広がりと内容物の移動速度とは別物だとして回避できたとしても(それだと、なぜ星雲は遠ざかっているのだという質問に答えられなくなってしまうのだが)、一般相対性理論の提唱する等価原理、すなわち重力と空間の加速度とは完全に同一視できるものであるとする考えを援用するなら、現実に存在するとされるブラックホール、たとえば白鳥座Xは加速度状態にあるわけである。そうなるともしそのブラックホールから見た場合、わが地球が逆の加速度状態に置かれるのでなければならないはずだろう。つまりいずれにしても現実にブラックホールがどこかに存在しうるなら地球がブラックホールでなければならないという奇妙な結論を導くことができる。だがその特異点はどこにあるのだろうか。白鳥座Xから見た場合は、宇宙のすべてが特異点ということが結論なのかもしれない。

 この言い分をおそらく多くの人は奇妙な思い付きと切り捨てるのだろうが、もちろんそれは回答にならない。もしかしたら誰かが答えを出しているのかもしれないが、私は未聞だ。宇宙全体がブラックホールの内部にあり、実際に現在は内部に崩壊しつつある過程である、という本を見たことはあるが、どの程度に信じられているのか、心もとないところだ。そのほか、ありていに言って、疑問を感じる者が科学に無知であるとするか、自然とはそういう不思議なものだと開き直るか、どちらかの回答しか提出されてこなかったと思う。多くの人がこれで納得できているらしいのはいくらなんでも異様なことではないか。

 では逆に考えてみよう。なぜこのパラドックスに答えるべき真実があると私たちは思わされるのか、つまりなぜここまであからさまなパラドックスを内包した理論を即座に切り捨てないのか(私たちは、という主語は偽善に映る。なぜなら、私はこの理論を信じないから。しかし説明すべき何かがあるとは感じる)。また哲学的な、というより心理的な物言いになるが、私の考えではこれは純粋に理論上の出来事であるがゆえに回答が可能なはずであり、納得できる見方が今まで出されないからこそ答えられるべきであると感じるのだ。つまり単なるパズルなのである。パズルであるなら、もし回答が存在しない場合に作者のミスであるという究極の回答も含めて、必ず解ける。もし納得できる解決、その最悪の場合でもなぜ作者はミスしたのかという疑問への回答が存在するなら、その時こそこれを受け入れるか捨て去るかの判断が可能になるはずなのだ。

時間論だけに的を絞るなら、相対論のもたらす矛盾はいわゆるウラシマ効果と双子のパラドックスに典型的に表れる。ウラシマ効果とは、その言葉通り、浦島太郎の昔話を相対論によって再現することである。二十歳の双子がいて、弟は地上に残り、兄が地球の時計換算で十年がかりの宇宙旅行に出かけたとする。再会の折、たとえば弟は30で兄は25である、という状況がありうるとするのが、相対論の言い分だった。年齢がこのような数値になるものかどうかはともかく、これはすでに常識的な見方の一部であるとされる。要点は、地球にとどまる弟は、移動する兄より必ず早く年を取るということだ。これは相対論によれば時空のゆがみがもたらす効果である。

 上にもう一度基本の図を掲げる。これはもし本当ならデカルトの空間座標が3次元的に描かれるべきであるように、4次元のものとして描かれるはずなのだが、極端に省略して平面にしたミンコフスキー座標だ。科学の解説書などに出てくる図は同じ省略形でも多少立体的に見えるような描き方をしている。たとえば光の軌跡は漏斗状になっているうえに、陰影までつけてあるとか。いずれにせよ正確に描くことは不可能なのだから、ごまかしと言えばごまかしだろう。なぜなら3次元のデカルト座標はもし立体透視で描くならほぼ事実通りになる。つまり2次元のデカルト座標は現実の断片そのものだが、ミンコフスキーのそれは断じてそうではない。ミンコフスキー座標を、たとえば無数の立体図を用意して、時間を追ってぱらぱら漫画のように見せることにしても事実の通りになることはないのだから。

 二つの座標図の、何が一番違うのだろう。3次元空間のデカルト座標において、任意の一点Pまでの原点からの距離をSとすると、それはS²=x²+y²+z²を解くことで与えられる、単純な空間的へだたりを表す。ミンコフスキー幾何学では同じく任意の一点Pまでの距離はS²=x²+y²+z²-c²t²と書かれ、これは原点からPに至るまでに要する時間であるとされる。

 混乱を招くだけだからあまり寄り道はしたくないのだが、ミンコフスキー図の解釈において、学者の言い分に相当譲歩した形を取らなければ先に進めないことをまず確認しておくべきだろう。任意の点というのは、先に書いた通り、場所を指すわけではなくある事件を示す。であるなら、本当のところある時間的幅を持って運動状態にあるものしかこの図の中に描けないことになる。上図は時刻t1に宇宙船が地球を後にして、それがaの距離にまで達したとき、地球にいる私にとってt2-t1の時間が経過していることを示す。ところで、先のミンコフスキー方程式をここで使いたい場合、この図ではy軸とz軸が省略されているので、S²=x²-c²t²と考える。さらに置き換えてx²-S²=c²t²とすると、いずれの項も正であるので、t2-t1は常にSより大きいことになる。すなわち地球に残った私の時間経過は、宇宙船のそれよりも大きい値になると計算できる。これは描かれた線分の見た目とは逆の関係であり、つまり長い線分ほど短い時間を示すので、なかなか合点のゆかないことであろう。

 なぜそうなるかということについて、学者が正確な説明を提供したことはなかったと思う。もちろん上記の数式だけは出してくるのだが、それで理解した気にはならない。なぜなら彼らも理由がわかってないからだ。なぜわかってないと決めつけることができるのか。それは基本図の第一象限に、過去に起きた様々の事象を描きこむことが可能だと彼らが考えていることから察せられるのだ。いくつかの宇宙論の書物を参照するならばこのことが裏付けられるだろう。

 きわめて単純な錯覚があるのだ。それは、光の時間は0であるとされていることに起因する。意識してそうなっているのではなく、結果としてそうなる。