カントールの実無限と、それに反対を唱える可能無限との立場は何か。手の上で自在に無限の観念を扱い、それが計算可能な定数にすぎず、あまつさえその外に出てこれをながめることができるかのような立場をとるのが実無限である。それは決して到達可能ではなく、計算の対象ともなり得ないというのが可能無限ということになる。

 ポアンカレ運動とは、無限大を超える速度が存在し得る場合に、情報を過去に送り届けることが可能になるという理屈だった。無限大を超える速度はあり得ない、と私たちは直観的に感じるだろう。それは必ずしもニュートン力学を採用するからではない。そもそも無限大の速度すらあり得ないと常識的に思う。

 ところが相対論では光速度を「名目上の無限大」として処理するので、それを超える速度が考察の対象になりうるのだ。もちろんこの点でも、当たり前の感覚では「光速度は無限大ではない」ということになるはずだろう。論点はだから、実は無限大以上という常識はずれな部分ではなく、無限大に到達可能であるかどうかというところにある。

 ふしぎなことに、カントールの提唱する実無限の集合論と、相対論の名目上の無限大とがここで重なって見えてくる。現実世界において、無限大であるところの何かには到達しえない。無限とは可能性にとどまるという意味で、それは可能無限でしかありえないのだ。もちろんビッグバンやブラックホールを信じる側からするとこれが暴論になることは承知している。無限大の速度と私たちがいうとき、同時というものを無理やり到達速度の側から解釈することによるのであって、速度よりも時間のほうが根本的な観念であるからそもそも時間が速度を基礎づけるのであり、逆はあり得ないと思う。したがってここで無限大とは、概念空間のみで使用しているのであり、現実的である必要はないというニュアンス込みで言っている。

 実無限集合論の根拠である無限小数には、はっきり定義できるもの(√で表現する数や円周率など)と、はっきり定義できない、無限小数としか呼びようのない、正体不明の実数がある。しかし同じものとして扱われる。後者は有理数であるか無理数であるかさえ定かではなく、量も確定できず、計算もできない。要するに、実無限が正しいと主張するためにのみ作られた、対角線論法という場だけに現れる架空の数字に過ぎない。無限の濃度の違いは、無限の性質を表現しているのかということは、多少の疑問を残す。

 カントールの集合論も相対論も、無限大よりも大きな量を想定し、無限大の量があたかも部分的な量のごとくに語る。つまり無限とは名目上のことになる。だからそれを超える何かが想定できてしまう。これは矛盾などと言うしゃれたものでは全くなくて、単に言葉(数学的操作)によるごまかしではないだろうか。

対角線論法について、何度か名前だけ出しているが、もしかしたら知らない人がいるかもしれない。簡単に言うと、次のようなことだ。

 自然数の数は無限である。そして実数の総数も無限である。無限どうしであるから、比較しても同じ数になるはずである。しかしそうではなく、実数のほうが多くなる、とカントールなる人が言い出した。なぜなら、もし同じ総量であるなら、1対1対応できるはずだが、そうはならない。

自然数と実数の対応を、仮に設定してみる。対応は適当でよい。そして数を全部使うと膨大なので(0,1)の範囲を使う。つまり1の長さの数直線上にある実数に自然数(x+番号)を割り振る。理屈の上では数直線が限定的でも、そこにある実数の数は無限であるので、結果は変わらない。さらにわかりやすくするために二進法を使う。

 対応は以下のように書ける。自然数x₁に対し、実数の0.1001…が割り付けられるという意味である。…以下は無限に数列が続く。ここには、(0,1)の範囲に存在するすべての実数が書きだしてあるという前提である。

 さてここで、小数点以下の、この斜めの部分に着目する。斜め読みするから対角線論法と言う。ここでは1010…の並びになっている。これを全部ひっくりかえすと、0101…となる。そして、この数は、表の中にはないはずなのだ。なぜなら小数点一桁はx₁と違っており、二桁目はx₂と違っている。以下、どこまで行っても該当の順番の数字とは違う。ということは、左欄の自然数に対応しない膨大な数の実数が存在するはずである。したがって同じ無限大でありながら、自然数よりは実数の数のほうがより大きな量の無限大である。

 私はこの論法全体が間違っていると思う(もちろん言うまでもなく超少数派である)。無限の数の数字が表に書いてある(はず)という前提はどうなのだろう。書き出しきれないから無限なのではないか。一対一対応とは言うが、小数点以下無限に続くものを検証できるのか。むしろどの数字一つとっても、検証「過程」に過ぎないのではないか。そもそも最終桁が決定しない数は数であり得るのか。なぜなら数は量なのだから。πや√2は小数にすると確かに最終桁は不明だが、定義可能な量である。だからその意味で対角線論法に出てくる数字は数として定義できないものなのではないか。

 これは私が素人意見で自分勝手に感想を述べているのではなくて、一貫して無限集合論に対する批判は常にあった。しかし本当に少数派にとどまる。無限を語れるという魅力と、数学の万能感には抗しがたい魅力があるらしい。