もう一度検討項目を書いておく。信号を10光年向こうの反射板に送り、戻ってくるまでの時間を考えることにした場合、

 

 1 もし光を送った時、片道10年の行程なので、20年後に戻ってくる。

 2 次に、光よりも速い信号を送る。これは確かに20年後よりはもっと前に戻るが、放出する現在よりは後になるだろう。決して放出時点をさらに遡った昔に戻ってくることはない。

 3 信号が無限大の速度を持ち得るなら、放出と同時に信号を受け取ることができる。

 4 光よりも遅い信号の場合、もちろん20年後を超える未来に地球に戻る。

 

 以上のことは、犬が犬であり、猫が猫であることを確認するくらい、明白で文句のつけようがないことだと思う。ああ、チーターは猫と犬の中間と言われていた時期があったっけ。だとすると、犬猫の類別以上に明白なことではないか?

 ひとまず二項目終えたので(えっ? どこがと思うかもしれないが)、つぎの検討項目は3になる。「もし無限大の速度の信号がありうるなら、射出と同時に、遠くの反射板から戻ってくる信号を受け取ることができる」。

 これは、表現として危ういところがあるが、異論の余地なく正しいのではないだろうか。これならば、時間を遡る、すなわち射出時点以前に戻るためには無限大以上の速度が必要であることになり、理屈でも、感覚上でも、時間をさかのぼることの不可能性が理解できる。もちろん無限大の速度の信号は相対論の主張を待つまでもなくあり得ないので、放出と同時に受け取ることがそもそもあり得ないことになる。相対論の妙な理屈のおかげで時間旅行が可能性としてはあり得ると人々は信じたわけだが、残念ながらそれはかなわない。もっとも、それは時間を速度によって分節する考え方によるものということではあるので、別の方法は考えうるのかもしれない。これは余計な付け加えで、この文章全体の信頼度を下げる恐れはあるが、一応言っておくと、無限大の速度の信号は、人間の立場としてはあり得ない。しかし宇宙全体が神であった場合、あり得るかもしれない。自分が考えるということだからである。

 かなり以前のことだが、無限大以上という意見を、ためしにネットに書き込んだところ、理解できない人がいた。彼の返答は「無限大とは限界がないということだから、意味をなさない件」という、ネットらしく人を小ばかにした表現だった。単芝を生やしていたかどうかは失念したが。いや、わかるだろうよ、とそのとき思ったものだ。彼は無限大以上の速度という私の一見不用意な発言が気に入らなかったのかもしれない。しかし彼にとって「意味がない」という感覚を要求する概念だから時間をさかのぼることが不可能だとこちらは言っているわけで、理解はできるはずではないだろうか。そもそも無限大以上とは意味がないのではなく矛盾である。理解を拒む要素は、相対論に文句をつけるという私の行為が気に入らないという気持ちだけではないかと、その時感じた。

 ちなみに限界がないということと無限大は日常言語において明らかに違う。無限大は一つの量であり、限界がないとは、無限大と言える程度に大きく、しかし量として計れないということだからである。無限大は正確に指定可能な或る量であり、確かに特殊な数値ではあるが、数式の中に入れて答えの出るもの、もしくは計算不能という明白な結果の出せるものだ。

 それはともかく、速度の話の中に因果律の逆転などというものはない。時間も距離もマイナスになることはないのだから、最大限の速度とは出発と同時に目的地についているということになる。それ以上の意味はない。すなわち日常語及び時間の直感的な把握が先にあるのであって、無限大かどうかの大きさはそれをもとに導き出されるのだとすれば、後者が無意味であるか矛盾であるかはさほど問題ではなく、とりあえず時間側に課した設定が現実的ではない、という結論に至るだけである。無限大以上、は不用意な言葉には違いないのだが、不可能であるという気持ちを汲み取ってもらうしかない。いや、むしろ無限大以上ということを数学的に理解しようとしてもできないと言いたいのであれば、それこそ数理原理主義思想なのではないか。それならばℵ0とℵ1(無限集合の濃度の表現)の違いはどう理解するのか。私に言わせればカントールの実無限こそが数学への冒涜であるように思うのだが。

 もし剛体の長い棒が存在するなら、こちら側を押し引きすることで暗号みたいなものを送るとして、まったく時間の無駄なくあちら側にそれが伝わるだろう。「剛体が存在すると仮定する」、こう言い換えると、相対論の内部でも無限大の速度が無理なく理論として使える。つまり剛体とは「同時」というものが通念としてあらかじめ成立していることを前提として、それに対する力学的な説明であると概念化できる。これが現実には存在できない、と言うことはもちろん可能だが、理念として理解不可能であると言うことはできないだろう。ウィキペディアその他を閲覧したところ、「光速度が事実上の無限大の速度である」との記述を見たが、これは余りにも乱暴な意見だ。なぜなら光は放出と同時に戻ってくるわけではない以上は「事実上無限大の速度ではありえない」と言わなければならないはずだからだ。もちろん論者の趣旨は分からないでもない。すなわち、ニュートン力学上での無限大の速度の持つ性質がいくつかあるとして、相対論の中で光速度の持つ性質がそのいくつかを満たす、ということなのだろう。ただし少しここで立ち止まって考えてみれば気付くのだが、共通の性質があるにしても、もしかしたらそれぞれが他に固有の性質を持つかもしれないと当然考えるべきであり、何の検討もなしに「同一である」という言い草はありえない。

 つまり、「光速度が事実上の無限大の速度である」とは、光よりも速く移動する存在がないということを意味ありげな表現で語っているだけであり、気取ったレトリックにすぎない。何が同一であり、何が同一でないかの指摘が必要であるということだ。しかしまぎれもない無限大の速度を使った「同時的空間」の概念を肯定しているのだから、論者たちはやはり単に口先のみで相対論の時間定義に同意しているのであって、それが何かについての把握ができていないと思われる。把握できているなら「光速度は事実上の無限大の速度ではありえない」と言うはずなのだ。なぜなら、光の伝達速度は、明らかに剛体の条件を満たさないのだから。

 そして、もし光が「事実上無限大の速度」で移動できるなら、当然10光年先の反射鏡に放出した光は全く時間を経ずに戻ることができるということになってしまう。もちろんそういう含意のもとに組み立てられている理論であるという反論はあり得る。ただ、私の考えでは、今の今まで気づけなかったということが正しいのだろう。このことを現実的な事態としてだれか正確に描写できるものだろうか。それが正しいとすれば、なぜベテルギウスの超新星爆発と地球で観測できるはずの時間についてタイムラグがあるという話をするのか。それはもちろん通常の時間概念が優先されるからに他ならない。つまり通常の時間概念でしか世界の様態は把握できないし描写もできない。