ためしに「私」の時間軸上のQ点に対する同時的空間を描いてみると下図のようになる。

 これは通常感覚だけではなく、相対論でも成立する「同時」である。遠い場所のことであったからすぐには把握できなかったが、あとから思えばあれはQと同じ時刻の出来事だった、という形で後付けできる。(例えばだが)昨日関東で地震があったらしい、でも、あれ? 自分は何も気づかなかったなあと思うが、しばらくして、そうだった車で外出していた時間だった、それならわからないかもなあと気づく。つまり同時刻というのはほとんどの場合後付けで決まる。

 むしろ相対論のほうが、光のやり取りで時計合わせをするという時間の定義を採用している。時計合わせが時間を決定するのであって、その背後に絶対時間はないかのような、なんとなくそんな見かけになっている。しかし時計合わせとは、光が届いた時点からさかのぼって相手方の時間を推測するという行為が必須なのである。ワイルの本もそのような書き方をしている。この時点で矛盾と感じない理解力とは何だろうと、ただただ大きな溜息が出る。
 そして実際多くの(実はすべての)相対論科学者は、この同時的空間の概念を利用している。したがってそれが相対論内部の概念であると信じている。だが残念ながらそれは相対論で定義する過去と未来を必ず横断する形になるのだ。ちなみにワイルの定義ではAが能動的未来であり、Bは受動的未来である。未来という名をBにも与えているのは、私から作用を及ぼすことはできない、しかし向こうから未来の私に作用を及ぼすだろう事象という意味だが、その効果が私に届いたときにその事象自体は過去の出来事であるはずだ。つまりその定義そのものがすでに時間の混乱含みなのである。これはもう、笑ってよいくらいの言葉によるごまかしだろう。なおかつ、離れた場所は現在と未来と過去が複雑に入り乱れる空間というイメージが乗っかっていて、なんとなくその神秘感に自分たちが酔っているという図にしか見えない。また、多確かにそういうところが大衆受けする理由でもあろうかと思うのだ。しかしどう言葉を複雑に重ねようが、x軸という「同時的空間」を設定して、そのうえで物を言うのだから、通常の時間概念に包摂されるべき概念しか使えていない。これは必ずしも、通常側が絶対的に正しいというのではなく、人としての思考上の縛りがそこには存在すると言っているだけだ。相対論は確かに数理的手段でその縛りを突き抜けようとしたのだろうが、残念ながらそれには失敗している。それだけのことである。

 タキオンなるものが実際にあったとしたら、光よりも早期に戻り、しかし射出した時点よりは後の時間になる。この一文に、相対論に反する考え方は含まれていない。ならば、項目2の相対論支持者の誤解は実に単純だ。このとき、タキオンが時間を遡ったと言いうるとするなら、それは光が地球に戻った時点から見ると過去になる、ということでなければならない。でも実際にはそうではない。相対論の定義する過去とは、光が到達する前にすでに起きてしまったこと、という意味でしかないのだ。慧眼の人ならすぐに理解するだろうが、過去の概念が論点先取りの形でここに入っているだけなのである。この一連の問題提起の冒頭に述べたとおり、「光速に時間の基準を置く」と言うとき、それは0なのではなく1であるべきである、と理解すれば言葉のもつれが理解できる。つまり、もし光とタキオンに年齢があるなら、戻ってきたタキオンは戻ってきた光よりは若いはずであり、これが「時間を遡る」ということの意味になる。タキオンと光を同時に反射板に向けて放ってやれば、どちらも未来に戻ってくるのであって、通常の時間概念での意味で過去に遡る(すなわちタキオンが若返る)必要はない。戻ってきたタキオンは、戻ってきた光よりは若いかもしれない、しかし射出時点よりは歳を取っているのであって、もとより、タキオンと光が戻る時間にずれがあるのだから、タキオンのほうが若くてもよいのだ。

 要するに、信号を放出し受け取る人間の時間感覚と、タキオンの立場に立った時間感覚とを明確に分けずに考え、しかもB、C領域に対する無配慮が事をややこしくしている。この問題で、通常の時間感覚側は、未来、過去という概念を自分たちの定義する内容で正確に把握しており(混乱があるとすれば相対論学者の意見を聞いたことで戸惑わされたということだろう)、むしろ相対論の側が、通常の時間定義を知らず知らずのうちに自分たちの概念に反映させてしまっているのだ。