たぶん、エグゼクティヴサマリーみたいなものを置かないから込み入っていてわかりにくいだろうと思うので、一応結論を先に書く。宇宙船で一回りしてきた側は地球に残った方よりも若い。しかし宇宙船に乗った側から見ると、逆に地球が超高速度で動いていることになるはずだから、どちらかが一方的に多く年を取るという想定はおかしいだろうという形になると、神秘的な謎らしく思える。この「双子のパラドックス」の解決は簡単だ。兄が若いままの世界と弟が若い世界に分岐する。つまり多世界解釈だ。ナンセンス? もちろんその通り、だから理論自体が間違っている。兄と弟の二項対立にするから、なんとなくパラドックスの想をまとい、かつ宇宙の神秘を表現しているように思える。一万人が別々の旅をして帰還すると考えるとよい。それぞれに固有の時間がある。では帰還後の年齢は? そのすべてに「双子のパラドックス」が適用されるのか? 答えは出ない、出しようがない。分岐が無限に存在する。要するにナンセンスなのである。余計わかりにくかっただろうか。

 基本図を再掲しておく。相対論で時間論を展開すると、日常の感覚に沿わないことが次々に出てくるが、そもそも相対論の定義する過去、未来と、日常概念のそれとはかなり違いがある。日常概念ではx軸より下の部分は過去になる。作用可能性で定義できる時間、および光速度で考えられた相対論の時間概念ではAのみが私の未来世界である。Dはどちらの世界観でも過去になるけれど、Cについては多少怪しいだろう。通常感覚ではもちろん異論の余地なく過去だが、相対論ではこの部分が意識して論じられているわけではないのだ。図面上では存在しているはずなのに、理論的には定義不能であり、議論にも上らない。

 理論的には定義不能、と書いたが、実は明快な定義が可能である。ただし、通常概念で理解するということなので、学者がそれを認めることはないはずなのだ。Aについて言うなら、それは「原点から遠ざかる動き」という意味がある。遠ざかるとは、時間的空間的、ともに含むものである。この部分に点を打つなら、それは直線的に遠ざかる信号の4次元的表記の一断面を示すことになると思う。ただしこの4次元的表記とはニュートン式の疑似4次元に他ならない。

 Bは絶対時間では未来でありながら、光円錐による時間感覚では過去になる。つまりそこに存在する事象に対して働きかけはできない。しかしもしそれが、たとえば超新星の爆発であるなら、いつかはその光を受けることができるという意味で過去にはなりえる。また、現実には存在しないかなり過去の私なら、働きかける可能性もあったという意味で、過去の事象と言えないこともない。Dは近づく動き、CはBと同様の非常にあいまいな領域ということになるだろう。認識上は過去に属しながら、原点の私になんらかの作用を与えるためのシグナルを送ることができない部分だ。ただし私の未来に影響を与えることは可能なので、相対論支持者のさまざまに入り組んだ作り話の中では未来として語られることになる。

 つまりB、Cはよく整理されないままその時の話の都合で未来にも過去にも分類されてしまうわけだ。タイムパラドックスのような、一見解きほぐすことのできない謎は、この部分をきれいに整理すれば生じないはずである。言うなればニュートン式の絶対時空間と相対論の建前である光円錐に基づく時間とを無頓着に混ぜて使う相対論の思考がもたらしたものである。しかし後者の建前のみの時間論一つに頼って宇宙を論じることは私見によれば不可能であろう。

 B、Cの正確な意味を学者が認めるはずがないと書いたが、ここでもまた多少の訂正が必要かもしれない。ヘルマン・ワイル(相対論の使徒のひとり)が例によって先鞭をつけているからである。彼はAを能動的未来、Bを受動的未来と名付け、t=0は客観的意味を持たないのであって、時制のすべては作用によって定義されると言った。この大変もっともらしい趣向に人々は騙されたわけである。つまりいかにも深い意味がここにあるような気はするが、同時刻は意味を持たないと言い放ったうえで、時計をいちいちその同時刻の地点まで運んで同じ時刻であると追認しているのであって、それならば同時刻は意味があるのだ。もう少し後で、相対論支持者の言う「作用による定義」が通常の時空間概念をもとにしていることを論じるが、とりあえずこの場の主観的客観的とはそれこそ意味のない形容であるということは言いたい。主観的に意味があるなら客観的にも意味があるのであり、作用によって同時刻の位置が決められるなら、当たり前だが別の方法でその位置を確定しても無意味にはならない。

 おそらくワイルは客観的意味を持たないという言い方で絶対時間は存在しないということを表現したかったのだろう。これが無意味な罵倒語にすぎないことはすでに述べた。ニュートン式の、ひいては常識的な時間概念に絶対性は存在しない。時計を移動させることで追認できる同時刻をいろいろな考えの基準とすることは可能であり、大変現実的な戦略であるとは思う。それは要するに一つの時計で測ろうということにすぎず、その時計が絶対時間を示すということを含意しない。

 また、「t=0は客観的意味を持たないのであって、時制のすべては作用によって定義される」とは、動きを伴うもののみが(相対論的)時間として勘定されうるということだ。これはわかりにくいかもしれないが、静止している物体は相対論の時間定義では扱えないということである。これはすぐには飲み込めないかもしれず、説明は後回しになるだろう。しかし現実問題として、静止していようが動いていようが、時間には巻き込まれる。もちろんワイルそのほかも、無意識裡にかもしれないが、静止状態のものに対しても時間概念を適用する。もちろんそれは通常の時間なのである。そうであるからには、最低限でも二通りの時間が混在するしかない。

 光円錐の意味が通常概念で十分に分析可能であるのに、相対論のみがそれを明らかにするというもっともらしい作り話が簡単に信じられてしまったわけだ。同様に、ミンコフスキー座標内の出来事は通常概念で理解可能であるのに、いちいち相対論の理屈で上塗りされる。

 作用とは何か。自然界は多様であるから、いろいろな内容を考えることができるだろうが、とりあえず力が伝わるその軌道を座標上に示すことは、一つの物体がそちらへ向かうことと区別できないのだから、私たちはもっと単純な見方を選ぶべきなのだ。作用という複合的な概念ではなく、物体の移動(すなわち力が移動する)と考えるべきであるとすれば、この座標上では描かれた物体は必ず移動しなければならず、しかもctとcという時間の方向付けによってこの図表全体ががんじがらめにされており、結果としてきわめて単純な動きしか書き込めない。事実は、原点から単調に遠ざかる動きと単調に原点に向かってくる動きの二通りしかミンコフスキー座標上には存在しないのである。もっと複雑なさまざまのことをここに表現できるというのは学者たちの勝手気ままな空想にすぎない。