話が複雑になりがちだが、これはタイムパラドックスを完全に解きほぐそうがためである。間違いであるというのは簡単だが、それがなぜ正しいと多くの人に思われてしまうのかということに、私は焦点を合わせている。だから複雑に見えると、一応弁解しておく。

 ミンコフスキーは相対論で言えば使徒に当たる一人である。ミンコフスキー空間という、相対論の解説に適したと言われる概念を作った。

 いわゆるミンコフスキー空間を座標図は示している。3次元の座標に逆さの円錐形が描いてある(と、言う風に見てほしい)。これは、ある人が時空上のある位置(原点に)立ったとき、宇宙が彼にとっていかなるものかを展望させる図と喧伝されている。と言っても、別に大げさな仕掛けがあるわけではなく、z軸の代わりにct軸を置いて原点にいる人の時間線を表現し、x軸とy軸が囲む、図では平面に、すべての同時的空間を表現させている。図で、上に行くほど未来、そして平面的には、離れれば離れるほど、空間的に遠い場所ということになる。単にt(時間)ではなくctとしているのは、光が空間的パラメータと時間的パラメータを結ぶ働きをしているということの目印みたいなものである。c自体は変動のない定数ということになっているので、特にその値について神経を使う必要はない。

 ところが、私たちはこのcに、過剰な意味づけを求めてしまう。物理的な、すなわち現実において光が果たしている役割を、この単純な定数に込めてあるものとして考えてしまう。現状で本当にそうなっているのか。この座標の内部で、時間は単調に推移し、空間も単純に広がっている。どうみても、それは相対論の主張とは正反対の考え方のはずである。

 ただし以上の、三次元風表示では説明が難しい(それはまあ、私がうまく図を描き切れないからだが)ので、さらに次元数を落とし、完全に二次元にする。以下のようになる。

 まず結論としてあらかじめ宣言しておかねばならないことは、ミンコフスキー座標は全くのところニュートン式空間の把握法で展開されているのであって、その事実こそが、相対論的な発想では時空間を論じることが事実上不可能であることを証明する、ということである。なぜなら、相対論の考え方で座標図を展開するつもりなら、y軸がctすなわちc(時間)であるように、x軸はcsすなわちc(空間)であるべきだからだ。すると、原点0は静止状態にあるものではなく、光の速度で移動する者、ということになる。このことは、現段階では非常に意味のとらえがたい、荒唐無稽な主張に思えるだろう。

 デカルト座標で通常の原点を単に空間上の「ここ」とすると、それはミンコフスキー座標では時間軸上の「現在」も意味する。これに原点からx軸に沿って、ということはつまり、x軸は三次元空間であるという設定なので、宇宙のどの方向へでも適当に光を放つという意味でよいのだが、その光の軌跡を描きいれると、上に行くほど、つまり時間が経つほど単調に原点から遠ざかることになる。ミンコフスキー座標では光速度は基準となる値なので、そのグラフはct=絶対値xとしておくのが好都合だろう。

 相対論では光が何よりも速いとされ、情報がこれを超えて伝達されることはないのはもちろん、たとえば恐ろしく長い鉄の棒があったとして、こちら側を押してやれば反対側も即座に動きそうなものだが、この押す力が向こうに伝わるにも光速度の縛りが存在するとされる。こちらを押してやったとき即座に向こう側も動く物体を仮想して「剛体」という概念を与えている。では、剛体は現実には存在しないとしても、定義としては可能なのだ。「剛体は存在できないゆえに、これを使って『同時』を定義できない」と一部の学者が述べていることはどう解釈するべきなのだろうか。実は同時的空間が相対論の内部理論ではなく、全く日常的な直観によって定義可能であるからこそ剛体というものが意味のあるものとして想像可能なのであって、その逆ではない。同時的空間、これは相対論学者がその思想範疇にあるものとして不用意に多用する概念であるのだが、全くのところ日常的感覚にしか存在しないはずのものなのである。なぜなら相対論における同時的空間は光円錐の円錐面そのものであるはずだから(ここでは、すなわち光の軌跡)。

 光円錐の意味と、表現できることは、以下のことですべてであり、それ以上のことを読み取ることも書き加えることもできない(もちろんこれは私の主張なので、まだ受け入れる必要はない)。すなわち光の軌跡というのは何かしら作用しあうということの境界線を示しているのであり、現在の私が何か仕事をすると、時間と空間の組み合わせで眺めた宇宙の中で、図のa(もしくはa‘)の部分にのみ、作用を与えることができる。なお、下向きにもこのグラフは描かれておりこれは逆に現時点の私に作用を与えることのできる事象の集合を現している。すなわち、この図の示そうとしているのは、私の近くで起きた出来事は比較的短時間のうちに私に何らかの影響を与えることができ、遠くでの出来事はそれなりの時間を経ないと影響を及ぼさないし、また、私から働きかける場合にも同様なことが言えて、その限界を光の到達速度が決定する、ということである。

 ところで、これ以上のことは表現できないという私の勝手な決めつけをとりあえず度外視してこの原則論を読み直してみるに、これは相対論とは無関係に成立するということは自明であると思うのだ。光が宇宙の中で最高速度を持つ伝達手段であるなら、すべての物理現象は同時刻に光が到達している場所よりも近いところにしか伝播しないというのはきわめて単純な理屈であり、ニュートン力学内では成立しない、などと言えるものではない。とりあえずエネルギーが伝わらないことには力学的な動きなど作動しようもなく、エネルギーを伝えるのは何らかの素粒子もしくは波動が相手方および目的地に行き着く必要があるはずだからだ。

 それにもかかわらず、科学者たちはこれが相対論の達成であるかのように喧伝して来た。なぜかと言うと、この理屈がミンコフスキー座標と光円錐を使うことでようやく説明できると考えたからだ。事実は逆で、今の簡略な説明で十分理解が可能であることで例証できたと思うのだが、常識的な時空間把握こそが全体を解釈する要諦なのであって、それどころか、全く不細工極まる、かつでたらめなミンコフスキー座標なるものに、どうにか説明可能性めいた外観を与えているのである。そのうえでもう少し突き詰めて考えるなら、この外観は全くの誤解であることが明らかになる。念のために言うと、この段階で私が指摘するのはミンコフスキー座標の間違いであって、相対論のそれではないかもしれない。ただ相対論支持者のかなりの人がミンコフスキーの解釈を使って一般人を教導したがっているという事実はある。

 まずミンコフスキー座標の見掛けに一つ気づくことがあるだろう。それは、この座標の生命線ともいうべきct軸を単なる時間軸に置き換えてみると、ニュートン力学の疑似的な4次元展開そのままであるということだ。立体的表現であれば3次元空間を一枚の紙のようにあらわし、それを何枚か重ねて垂直に時間軸が貫く形になる。しかしながらこの形態は相対論支持者言うところの絶対時間と絶対空間を前提とするから可能なのだ。3次元空間に見立てられた一枚の紙は言うまでもなく絶対空間を表現するものであり、この形式はミンコフスキー座標においてそのまま用いられている。そうであるならば、座標の基礎的な部分で絶対空間に頼った思考に従っているわけである。もっとも、絶対時間と絶対空間という、この二つの概念に科学者がこれまで示唆してきたような深い意味はない。単調に距離を刻む物差しと、単調に伸びる時間軸とで作った座標上にものを表現するということでしかない。つまりミンコフスキー座標そのものの姿である。

 これは先回りの安易な批判に思えるだろう。しかしいずれにせよ相対論の建前にミンコフスキー座標が応えきれていないことは事実だと思われる。ニュートン力学の疑似的4次元表現はニュートン力学を十全に表現している。言うなれば、座標のパラメータは、私たちがこれを直感的に把握するそのままの姿だ。座標上の短い距離は近い距離、もしくは時間的な短さを表現している。ミンコフスキー座標はそうではない。座標上の短い距離が時間上はより長い時間を表し、あろうことかこの齟齬具合を自慢する。

 そもそも、座標やグラフを使っての表現とは、複雑すぎて把握の難しいデータ群や現実の一側面を直観的に見て取れるようにする工夫にすぎない。デカルト式座標があたかも現実そのものの断片に見えるということは、言うなれば私たちにとって大変幸福な偶然だが、大切なのは直観的な把握が可能であるという部分だと思うのだ。しかるにミンコフスキー座標はこれを眺める人に直観的な理解を許さない。学者は例によって理解の難しさを現実の複雑さ、あるいは読み取る側の頭の悪さに帰結させるのだが、学者自身も全く理解できていないことは、この図表の解説がどれもこれも相対論の数式との突合せに終わっており、たとえばパラメータの表現の不具合を十分に説明できないことなどからも明らかではないだろうか。

 それが直接に相対論の反論にはならないとしても、この図表があまりうまくないことは確かだ。ここまでニュートン力学を表すのに適した座標が、全く別の思考形態にぴったりはまるわけがない。なぜならこの座標において時間も空間軸も等間隔の刻みで単調に伸びる形になっているからだ。いかなる意味においてもこの二つに単独で正確な量を与えることはできない、ということが相対論の建前だった。したがってこの理論に忠実であるなら、等間隔に刻まれた目盛りが振られるべきは光の軌道のみであるはずなのだ。

 ミンコフスキー座標が相対論の建前を表現できていないだけなのか、もともとこの不完全さが相対論の性格そのものなのかは、ここまでの考察からは明らかにならない。しかし、学者が建前を十分表現できたと認める座標が存在しうるとして、それがどのような形になるのかは私にはわからないところである。それは要するに相対論の思考を具体化することはできないということなのではないだろうか(結論から先に言ってしまうと、相対論は多世界解釈にしかなりえないのだから、本当は具体的なことは何一つ導出できないはずの理論である、したがって具体的な像は出てこないということになると思う)。

 そしてもうひとつ、学者たちはこの座標図をもとに気ままな空想を広げているのであり、当然ながらその空想は根拠を持たない言いがかりとして排除されなければならない。私が排除するのではなく、本来ならば相対論支持者の方から批判が起こらなければおかしいということだ。

 説明可能性の見掛けを、相対論の主張に沿って考えてみる。いくつかある主張の一つが、この座標にある位置が描きこまれた場合、それは「もの」ではなく、ある「出来事」だということである。たとえば任意のp点があったとして、それは大マゼラン雲の位置を示すのではなく、宇宙船が大マゼラン雲に到着したとか、私が初めて大マゼラン雲を見た、などという事象を示す。そしてその事象は私とかかわるものでなければならない。なぜなら私とのかかわり方によってはじめてその事象の時間が決定できるからである。例えば、本当に適当に二つの点をa領域(光円錐の内側)に描きこんで、その二点を結び、生成(B)から消滅(A)までの軌跡とすることで、ある天体の生涯を書き込めるような気がする。

 しかし20歳の私が一億年とみなす生成から消滅までを30歳の私は八千万年とみなすかもしれない。時代を隔てた私は、その星との相対速度を変化させているかもしれず、その場合にその星の寿命も異なるものとして把握することになる。例えば人生のどこかの時点で私が超高速の宇宙船に乗っていたとすると、その時はその星の寿命を長く見るかもしれない。すなわち生成から消滅までのプロセスは中心の時間線すなわち私のどの時点とかかわりを持つかによって全く違う意味を持つ。線分ABの内容は、ct軸上の(例えば)mから見るかnから見るかで変化する。ところが、かかわりの持ち方とはいかなる意味なのかそもそも不分明なのである。私の側から生成の瞬間をめがけて何かの働き掛けをするということはまずないだろう(働きかけということを問題にするのは、つまり光円錐の内側のみが一定時間内に働きかけ得る範囲であるという定義による)。一般的には、目撃する、すなわち光を受け取るということになると思う。では星の一生などという長期間のものは正確には描けないはずのものなのである。

 ここでありうる反論は、この図全体が原点における私の速度、ひいては私の時間の流れをそのまま延長することを前提としたものであるから問題ない、というものだろうか。それはつまり、原点における私の速度、ひいては時間の流れをそ

のまま延長することを前提とした全体の記述が可能であるということになるのではないか。この反問は一見無意味だろうが、私が言いたいのは、そのような全体の記述は物理学として不完全であるという主張が相対論の側の取柄だったはずだということだ。いま書いた「原点における私の速度、ひいては時間の流れをそのまま延長することを前提とした全体の記述が可能である」ならば、ニュートン力学が可能だということになるのではないだろうか。そしてそれは今まで繰り返した通り、さらにこの先明らかになる通り、相対論よりはるかに包括的で柔軟な思考なのである。上に書いた「原点における私の速度、ひいては時間の流れをそのまま延長することを前提とした全体の記述が可能である」ということは、可能と言うだけではなく、実はそれ以外には不可能であるということをも含むのだ。