項目2について考える。すなわち「光が20年かかるところを、もしそれより速い信号があるなら、20年かからずに戻る」という主張である。ここが、相対論との考え方の差が最も大きくなる部分だろう。そして相対論の、間違いというよりも杜撰さがはっきりわかる箇所だ。光が20年かかるところを、もしそれより速い信号があるなら、20年かからずに戻る。これは文句なく理に適う考えではないだろうか。ただし、もちろん射出時点よりも後の到着時刻になるのだ。私には異論の余地があるとは思えない。

 相対論を厳密に受け止めるなら、時間をさかのぼることができるものは存在しない、ということになるので、以下の話は全て無意味な前提で語っているということになるのかと思う。しかし私の考えは、時間をさかのぼることは時間が伸び縮みすることの一例にすぎず、ナンセンス度合いにおいて全く違いはない、というものだ。そのうえでの話であるということで了解していただければよいと思う。

 一時期いろいろと話題になったタキオンという概念はもうあまり聞かなくなった。この粒子の性質とされる、時間をさかのぼる、ということを少し考えてみると、非常に都合の悪い事態があらわになるからだ。それは妥当性の問題ではなく、時間をさかのぼるという意味が、相対論の中で十分に意味を限定できない、ということである。

 その代わりと言っては何だが、量子論の分野で、量子テレポートなどと言う概念が出てきたようだ。拘束を越える移動が可能である、という程度の意味だろうか。ただしこれは、私の意見だが、量子論が相対論の考えを取り入れた部分に生じた概念であって、相対論が間違っているのだとすれば量子論のこの考え方も当然成立しない。これは強調しておくが、量子一単位の航跡を追うなど、現代の技術では、いやこの先どんなに科学が進歩しても明らかになることはあり得ない。そのことだけはどうも理解しない人が多い。今いろいろ言われていることはあくまでも仮説だ。ただ。これは今述べつつあることとは別の問題につき、これ以上は言及しない。

 10光年先に設置された反射板に光を当てると20年後に戻ってくるという想定に疑問をさしはさむ余地はないだろう。そしてそれより少し遅いだけの、準光速度の信号なら21年後だったり22年後だったりに戻ってくる。では、光より速い信号は19年後や10年後に戻ると考えて、何の問題もないはずではないか? そういう信号が実在するかということは別問題として。

 ところが相対論には、射出時よりも前の時点に戻る信号と、たとえば21年後に戻る信号はあり得ても、19年後や10年後はあり得ないのである。つまり、20年以上かけて戻る信号については、速度と戻る時間についてニュートン力学と変わりのない計算結果であるのに、突如として、射出時点から光が戻るまでの20年間が空白地帯となってしまうのである。変わりのない計算結果とは、光速の2分の1の速度であれば倍の時間かかって戻り、3分の1の速度であれば三倍かかるということだ。これに「およそ」という形容をつける必要はない。視点は、地球側に置かれるからである。空白地帯が生じるのは、光速度以上になると時間をさかのぼるという概念に引っかかるので、どうしても射出時以前にもどると考えてしまうからだろう。時間の処理を、どちらの視点で論ずるべきか、相対論に確固とした理念が存在しないのである。

 たとえば時間を逆向きに生きる猫がいるとしよう。土の中から微細物質がわらわらと沸き上がり、毛艶の悪い、年老いた猫のかたちにまとまる。私はそいつを飼いたいと思う。でも、この猫と15年の時間を共有するとはいかなる意味なのか。食事はどうなるのか。吐き戻した餌から何かを推定して、それを与えるということなのか。後ろ向きに散歩をするのか。そもそも15年を共有できるということは、奇妙な生き物が私の時間軸に沿って生きるということではないのか。これらのことについて、かすかにでも正しそうなイメージを作れる人がいるものだろうか。

 それとも、あるいは、逆向きの時間を生きる生物とは、無限小の時間を介してすれ違うのみで、全く接点を作りようがないのではないか。無限小の時間という言い方に、何らかの意味を与えることができるならば、だが。つまり時間をさかのぼるということは全く論外に無意味だ。もちろんそのことは相対論も言っているではないかと指摘されるかもしれない。だが私は時間の伸び縮みと時間の逆転は連続であって、逆転が不条理なら伸び縮みも不条理であると思う。そのことをこれから述べるわけだ。

 10光年先に設置された反射板に光を当てると20年後に戻ってくるという想定に疑問をさしはさむ余地はないだろうし、相対論支持者も反対はしない。そしてそれより少し遅い、準光速度の信号なら21年後だったり22年後だったりに戻る。では、光より速い信号は19年後や10年後に戻る、つまり光よりも速く戻ってくると考えることが当たり前ではないだろうか。一つの単純な粒子と考えるから、時間をさかのぼることが可能のように思えてしまう。しかし猫のような生き物が時間を逆向きに進むということに、正確な意味を持たせることは不可能だ。

 項目2の主張を、よく注意していただくとわかる。「光よりも速い信号を送った場合、20年後よりはもっと前に戻るが、放出する現在よりは後になるだろう。決して放出時点をさらに遡った昔に戻ってくることはない」。これは要するに、光よりも速いものがもし存在するならば、光よりも先に目的地に到着するということだ。当たり前すぎる。

相対論では選択肢が三つある。通常の時間感覚側と同じ結論、すなわち20年を経ずして戻るという予想を受け入れ、ただし信号は若返っているとするか、射出時点よりも前の時間に戻ることになるとするか、ありえないことであるとして議論を拒絶するか、の三択である。

 この中で最後の「議論の拒絶」は、取り合う必要のないものではある。ただし、もちろん相対論内部での理屈は存在する。例の式、√(1-v²/c²)で、cよりも大きい値をvに入れてしまうと、虚数になってしまうからだ。さんざん数字遊びを繰り返して、いまさら虚数だから不合理という主張もどうかとは思うが、とりあえず理屈としては通っていると言えるかもしれない。いや。虚数の解が出るからには、実際の次元の違うところへ行くのではないか、という回答はあり得るのかもしれない。異世界天性のテーマとしてはあり得るのかもしれないとして、私は、これはさすがに実際のこととしてあり得ないとは思うが、どうだろう。つまり多世界解釈の一つである。

 残りの二つはつじつま合わせの失敗にすぎず、問題のありかは同じだと思われる。通常の時間感覚の側と同じ結論を受け入れ、つまり19年後や15年後にもどる信号はあるとし、しかし信号そのものは若返っているとする考え方は、中途半端な妥協をしていると言えるだろうか。一応言っておくと、このような考え方を取る支持者はいないと思われる。調べても出てこなかった。ただし、選択肢としてここに書いておく。もし誠実にこの問題を考えるなら、当然考慮のうちに入るはずだと私は思う。

 射出時よりもさらに昔の時間に戻るとする結論は、時間を信号(と同速度の移動体)視点に置くか、地球側に固定するかで混乱がある。光より速いものは時間を遡るからという、字義に拘泥すると、自然にこの考えに陥る。つまり、光が10光年の旅をして、折り返し、地球に戻ってきたときが、光にとっては出発時と同時刻だという暗黙の定義にあくまでこだわると、すなわち20年後に戻って来てもこれが光にとっては同時刻なのであるとすると、この結果になる。問題は、このように文章化できることを、明確な形では理解せず、しかし結果として、矛盾含みのまま光の無時間性を押し通していることだろうか。

 これが同じ仮定の話だとしても、行きっぱなしとするなら、時間をさかのぼるということを、目的地の、射出時と絶対時間で比べて過去に着くのか。それともレーザーポインタの組み立てを逆にたどって、電流となり、発電所に行くことになるのか。これでもし宇宙船がテーマであれば搭乗員が若返るなどの手段があるが、単なる信号には適当にごまかす理屈を考えにくいだろう。

 ではどうとるべきなのか。私はここで因果関係を持ち出した議論にはしたくない。つまり、射出以前の時点に戻るとしたら、既に光を受け取るという経験をしているのでなければならない、といった類のパラドックスを強調する議論は余り説得力を持たないと思っている。間違っているという意味ではなく、相対論を信ずる人がその手の理屈に心を動かした例はないという、ただそれだけの理由だ。かわりに通常の時間概念の側から、この問題にわかりやすい見通しを与えておきたい。相対論の支持者は、その主張とは裏腹に通常の時間概念のみによって全体を理解しているという私の考えに多少でも理があるなら、これが正しい方法だと思われるのだ。