仮定したことを再掲する。以下のことは、異論の余地なく正しいと、私は思う。

 1 もし光を送ったとき、距離は片道10光年なのだから、往復20年掛けて戻ってくる。

 2 次に、光よりも速い信号を送る。これは確かに20年後よりはもっと前に戻るが、放出する現在よりは後になるだろう。決して放出時点をさらに遡った昔に戻ってくることはない。

 3 信号が無限大の速度を持ち得るなら、放出と同時に信号を受け取ることができる。

 4 光よりも遅い信号の場合、もちろん20年後をさらに超える未来に地球に戻る。

 光より速い信号は存在するのかどうかは不明だが、可能性としてはもちろん相対論内でも「タキオン」という名で論じられているので、考察までも不可能ということはないだろう。

 前節の話は、いかなる時間の伸び縮みも、宇宙船の短縮現象も、20年という時間を短くすることはできない、ということだった。光自体が20年という時間の内部を動くのである以上、光も時間を持つ。光と同じ速さで動いたとしても20年という長さは同じだ。光速度の宇宙船に流れる時間は20年であり、したがって乗務員は地球で待つ人間と同様に年を取る。それでも若いまま帰ってくると言いたいのであれば、残る手段は、経路そのものを縮ませるしかない、ということになるのではないか。

 ここまでの話の流れは多少観念的で入り組んでおり、いろいろ反論ができそうに思われる。しかしいかなる反論も相対論を否定する方向にしか行かない。だからこそ、この最後の手段ともいうべき結論を選ぶ学者もいるのかもしれない。さすがにまともに信じる人はいないのかもしれないが、一応理論の示す選択肢の一つとして考えてみるだけだ。だからまともに理解しようとすることもない。しかし相対論は時間が縮むということと同じく、この論をも支持する。それがまともに扱われないのは、要するに最初から問題外であるからなのだが、その問題外も相対論の主張の内部なのである。

これは、すれ違う列車や、すれ違う宇宙船は、お互いを短くなっていると認識するということの延長で、目的地までの道のりそのものをも「すれ違う物体」と同様に扱い、経路全体が縮むという考え方をとる。

 しかしここから推測可能な像はとても奇怪なものだ。時間の伸び縮みが奇怪なのではない。経路の収縮とは、数字だけを挙げて論じるなら、一次元の演算なのでまったく不都合に感じないだろう。しかし現実の空間においたときこれをどう見るのか。準光速度で動く宇宙船の既に通り過ぎた空間はいかなる「距離」として把握されるのか。また、これから向かう方向は、目的地までがすでにローレンツ収縮された形で見えているのか。それとも宇宙船の先端と空間が接する境界面の部分だけでローレンツ収縮の何らかの現象が見られるのか。仮に前者だとすると光速度で到達できない先まで何らかの影響が及ぶことを前提とする(もちろんこれは相対論の前提からすると重大な違反だ)うえに、もし予定もなく方向を変えたとき、この収縮そのものが意味のわからないものになる。

 さらに理解しにくいのは、進行方向に垂直な方向の空間処理だ。宇宙船が縮む、ということは、この宇宙船の全長をすっぽり収める空間全体が横の方向全体を巻き込んだ形で圧縮されるということだろう。もし宇宙船の占有する空間のみが縮むのであれば、それはこの宇宙の中にまったく定位することのできない空間となり、いわゆる多元論を採用することになる。いろいろ意見はあるだろうが、多元論をまじめに受け止める価値はない、と私は思う。その理由はいずれ述べなくてはならないと思うけれども。もちろんここでも繰り返さなければならないが、これを是とする人がいることは予想のうちである。そこまでして守らねばならぬ科学理論とは何なのだろうと、皮肉の一つも言いたくはなるけれど。

 もし空間のゆがみを論じるのであれば、したがって周囲を巻き込む形でゆがむとしなければならない。横方向の空間の縮みをどう処理するのかという問題は残り続ける。なぜなら、もしこれを正当化するなら、宇宙全体が宇宙船の長さの変化分縮むという奇怪な像を受け入れることになるだろうから。もちろん奇怪であることはどうでもいいのだが、光速度がいかなる場合でも直接作用の限界を示すという理念に、この結論は反する。そこで遠くのほうは元のままで、宇宙船に近づくにつれゆがみの度合いが増してゆくようなイメージを採用したくなるかもしれない。これはあたかも水上を行く船が水をかき乱す映像と重ね合わせで考えられているわけだが、私にはこれは説得力があるとは思えない。もちろんこの像が正しいとする人はいるのかもしれない。ひとつ理屈があって、たとえばある直線運動を近くから見ると大きな動きだが、遠くからだと小さな動きとして眺められる。空間のゆがみもそれに準ずるという考え方である。安易すぎるイメージであるということとは別に、この場合の空間のゆがみは時間のゆがみを伴うものだ。なぜなら、時間を調整するために空間がゆがむという理屈に持ってきたのだから。ということは、航路の近傍にあるものには何かしらの時間のずれが生ずるものと思われる。だがそれはなにに対してか? 重力の場合なら、時間がゆがむと言うとき、少なくとも「重力場」を問題にすることで重力の影響を受ける物体以外の部分まで正当化できた。しかし宇宙船の航路近傍において、宇宙船との時間の食い違いではなく、あたかも風を巻き上げるがごとくに周囲の時間をゆがめるとはいかなることなのか。

 さらにもうひとつ問題がある。経路をローレンツ収縮させ、さらに宇宙船をローレンツ収縮させるのであれば、結局その割合は普通の20光年の距離を1キロの宇宙船で旅するというニュートン空間の出来事と同じことになってしまうだろう。つまり経路の収縮は宇宙船のそれより大きい比率でなければつじつまの合わぬことになってしまう。しかしこのような数値の議論を私は寡聞にして知らない。まともに考察されたことがない、ということが正解なのではないだろうか。時間が変化する、長さが変化する、などの言葉を、人はただなんとなく説明済みであるかのように受け入れていただけではないだろうか。時間が延び縮みする、だからつじつまはあっているはずだ、とあまりに安易に思い込んでいるだけなのではないだろうか。

 もう一度確認しておくと、1光年がおよそ10兆キロであるとして、ここでの話では、通常の経路では200兆隻の宇宙船が並ぶのであり、ローレンツ収縮が現実にあるとしても、この数に変化はないのである。光速度に近い宇宙船の乗務者が20年と少しの旅を終えて帰ってきたとき20もの年齢を経ずにいられるとしたら、この経路に並ぶ宇宙船の数が減るシナリオが必要になる。手持ちのパラメータ(ローレンツ収縮の計算値、光速度、20光年)と概念(時間の進みが遅くなる、物体が縮む)の組み合わせでこれを作り出すことは出来ないと結論するしかない。そして残念ながら、何人にもつじつま合わせは可能ではないと思われる。

 経路が収縮し、しかし宇宙船はそのままである、という説は、さすがに検討する必要があるとは思えない。なぜなら、論の出発点が「ローレンツ収縮によって宇宙船(すなわち高速度で動く物体)は進行方向に沿って縮む」というものであったはずだから。ただ、あくまで搭乗員の観点だけで語るなら、宇宙船はそのままで、すれ違う進路全体が縮んで見えるということはあるのだ、と言い張ることも可能かもしれない。では、準光速で進む宇宙船に乗った彼女は20年を経ずして、すなわち光よりも速く帰り着くことになるのだろう。だが地球を出発する際、光と同時に飛び立つなら、もちろん光はやはり光速度でまっしぐらに飛んでゆくことを見ることができるはずだ。反射鏡へ近づくどこかの時点で、折り返し地球へ向かう光とすれ違うことになる。なのに、往復して地球に降り立った時、自分を置き去りにしたはずの光線があとから戻ってくるのを目撃することになる。自分は、どこで光を抜き返したのか。そんな地点はたぶん存在しない。光は確かに自分よりも前に行っていたのだし、抜きもしないのにあとから戻ってくると言うのだ。搭乗者の視点を保持することは、どうしても多世界解釈以外の解決法を持つことはできないと思われる。

 飽きが来るほどに繰り返さねばならないことだが、相対論の主張は、ローレンツ収縮とは縮むように見えるということではなく、実際に、物理的に縮むということであるはずだった。それでも、実際にそうなのではなく、宇宙船にいる人には宇宙船はまともな長さなのだ、そして経路の方は宇宙船と高速ですれ違うのだから短くなる、という主張もあり得るのかもしれない。しかし宇宙船が「実際には」短くないと言ってしまうと、経路も実際には短くないと言われたとき反論できないように思う。それでも、この考え方に固執するのであれば、私には施す手立てがないかもしれない。ただし、宇宙船と空間の境界面の処理がどうなるかということは、すべてのシナリオについて回る問題だとは思う。

 とまれ、単純な反論ではない、ということはもう一度強調されなければならない。通常の時間概念を支持する側に、説明するべきことも、反論すべきことも何一つないからだ。以上の観念的な議論は惑わすためのものではない。理解すべきは、次の単純な記述である。「10光年離れた鏡に向けた光は、20年後に返ってくる。もしそれより少し遅い宇宙船を同じ航路に飛ばせば20年プラス何がしかの時間の後に戻る」。 この明快すぎる事実に説明が必要だとは思わないし、おそらく言葉だけのことではないのだ。しかし「帰ってきた宇宙船の乗務者は予定された年齢よりは若いままである」ということは、単なる言葉だけのことであり、これにまつわるもろもろの現象は現実空間の中で、現実的なものとして考察されたことは一切ない、と言えるのではないだろうか。

 ローレンツ変換の式で計算することは、だれにでもできる簡単な作業とまでは言わないが、少なくとも考えることではない。そのことは、以上の例で十分に示されるのではないだろうか。計算と考えることは違う。全然違う。したがって、コンピュータのアルゴリズムも、考えることはできない。この微妙な部分が、なかなか理解されにくいところではあるとは思う。