タイムパラドックス

 例えば地味な暮らしを送る人が、いつの間にか貯金が増えていたので、「そうだ、たまには海外へ行ってみようか」と考えたとする。これを普通の流れとして、別の人は海外旅行のために仕事を頑張り、節約して目標の貯金額に到達した。この二人の行為には、明らかに因果関係の逆転がある。時系列で並べるなら、働く、貯蓄をする、海外旅行に行くだけの費用ができる、という具合で、同じようになってしまうが、それならば借金をしてまず行ってしまう、という選択もある。

 この例はあまり科学と関係なさすぎるので、腑に落ちにくい人も多いとは思うが、因果関係とはこうであればこうなる、という論理関係のことである。したがってそこには合理的な判断が介在するのであり、時間が決めることではない。つまり自動的に次がこうなるということではない。科学的な理論として認めてもらうためには、恣意的な判断を排除する、という了解があるのみだ。いくつかの間違いをそぎ落として、もはや時系列順に展開する自然現象としか見えなくなった時、問答無用の因果関係と認められ、原因(理由)と結果の間を、理論の介在しない「時間」のみがつないでいるような気がしてくる。

 このようなことを徹底して考えたのが十八世紀の哲学者、デヴィッド・ヒュームで、代表作は「人性論」(The Treatise of Human Nature)である。自然科学ベースで考えると、疑うべき限度を超えてありえない想定をさし挟むなど、おそらく彼は強く論じすぎていると思われる。しかしいまだに論理的関係がすべての時間によるつながりを取り込めるという幻想がある限り、一度は立ち返ってみるべき立場だろう。

 なぜここで、およそ科学の根本とは無関係に思えるヒュームを出したのか。相対論のあまりにご都合主義の設定が、どう考えてもここに引っかかるからである。冒頭に書いた通り、因果関係の逆転とは、実はそこまで希な現象とは言えない。だが自然科学に親しむと、時間の方向と因果関係がイコールに思えてしまう。そのことが相対論の妙な安心感と説得力につながっている。

 一つ異論があり得る。因果関係の逆転があるのは人が介在するからであって、そうでない場合には因果関係しか存在しないのではないか。この問題を論じだすと、たぶん相当複雑なことになる。生物はある意味で人の理性の原子形態を分かち持つ。したがって完全な因果関係で割り切れない。これを本能という概念で因果関係の中に封じ込める動きが主流であることは事実であるし、また哲学の中でも長らく生物に思考はないものとして扱われてきた。私は生物に知性はあると思うが、もしその意見が間違っていたとしても、人という例外があれば充分であるし、また今問題にしているのは、その、人の思考なのである。理性というものが言語に拠るものだとして、しかしその言語を使って語ることの内容の吟味をしているのであれば、それは理性が現実をとらえきれるかどうかということであろう。もしとらえきれるということであれば私は正しく語ることができるということだし、とらえきれないということであれば、(もし私が誠実に語っているとして)それは理性の限界ということかもしれない。私の限界?

 まあもう少し具体的に行こう。例えば親殺しのパラドックスと呼ばれるものがある。過去にさかのぼれるタイムマシンがあったら、自分の両親を殺害できる。しかしそうすると自分がそもそも生まれないのだから両親は生き延びる。よって自分はやはりこの世に生まれ出てくる。これは論理的矛盾だから、過去には行けないだろう。

 ここまではまず誰も認めるとして、しかし未来へのタイムリープならあり得るという話もあるようだ。このパラドックスは明らかに因果関係というものへの侵犯と感じられるので、過去への跳躍を誰も認めないし、相対論もきっかり、この点に理論の境界を置く。つまり、時間の伸び縮みはあるが、過去へのさかのぼりは禁忌となる。この禁忌の存在によって、時間の伸び縮みということを安心して語れるようになる。

 しかし理不尽さにおいて、時間の伸び縮みは過去へのさかのぼりとそれほど変わりないと私には思えるのである。これは一見奇矯な意見だろう。しかし因果関係は時間とは別物である、概念としても違っているし、事実としても違っていると認識すれば理解できるのではないか。そしてすでに相対論はブラックホールやビッグバンという禁忌を犯しているのだ。つまりそこで時間が止まるとか、時間が生まれるなどと主張している。時間の流れが遅くなるなら、どこかで止まり、そして逆流するということはそれほど不自然とは思われない。伸び縮みが可能で、しかし過去へのさかのぼりは不可能であるという意見は、因果関係について間違った考えを抱いているからだ。

 そして私が言いたいのは、何より、実際に親殺しを行ってみなければ、実際のところどうなのかはわからないのではあるまいかということだ。もしかしたらその場で私が消えるかもしれないし、シュレディンガーの猫みたいに生死半分ずつの存在になるかもしれない。あるいは生きたり死んだりの無限連鎖に入るかもしれない。もしくは現在の常識では考えられない、とても風変わりな世界の到来、ということになるのかもしれない。

 そして、非常に奇妙なことに、相対論を支持する学者の幾人かは、親殺しのパラドックスなどは認めないが、熱力学の第二法則(秩序は必ず壊れ、ランダムな状態に近づくという意見)の逆転さえあれば時間は逆流するという説を述べている。まるで無秩序状態が広がることが時間の流れの原因であるような勘違いだが、そもそも無秩序が「増大する」といえるのは、時間に沿って理解するからだ。熱力学の第二法則が逆転したなら、私たちは逆転したと認識するだけではないだろうか。

 繰り返すが、因果関係とは自然現象ではなく論理の世界である。どんなに強固に見えようと、しょせん頭の中の出来事だ(ヒュームよれば、だが)。自然科学は人類が文明を持ち始めて以来、やむことなく普遍的な法則を求め続けてきたので、この分野に属するほとんどの因果関係は自然現象という域に達した。しかし明らかに別の概念だ。

 物体の速度を上げることが時間の間延びを伴うものだとして、なにゆえ光速度に因果関係が逆転する特異点が置かれるのか。それは相対論を勉強すればすべて理解できる、と学者たちは言うだろうが、ひとつ見逃せない事実がある。少なくとも光は光速度で動くということだ。単純に考えるとこれは光が無時間であることを示す。しかし光の内的時間が止まっている、と言うことはできない。なぜならそれはどこかで生まれ、空間内を移動し、いつか消滅するからである。現実の世界内に存在して、周囲と関係を持ちながら、時間が止まった状態であることはできないだろう。

 それでも内的時間が止まった状態はあり得るという感覚にこだわる人はあるのかもしれない。光を、または光子を抽象的存在のように扱い、無時間的に扱ってもよいとする考え方もあり得るからだ。例えば宇宙のすべての水素原子は全く同一の構造をしており、プロパティ上のアイデンティティー(すなわち同じ性質を持つ)、ではなく、トークン的にも同一視できる(すなわちすべての水素原子はたった一つの、同一の存在である、なぜなら奥にある数学的実在の、個別の反映であるから)、という意見をたびたび科学書の中に見た記憶がある。ではなぜ陽子や中性子の崩壊などということが問題視されるのだろうか。トークンアイデンティティー上でも同一であるなら、すべての同一粒子が一時に崩壊しなければおかしいのではないか。光を時間から解放する手段などはない。したがって光速度で移動する物体の時間を停止させる理論も本当ならば存在しえないのだ。

 この点はすぐに否定せずに、一つの選択肢として残しておく。もうひとつ、光自体はそれ自身の固有時間を持つが、光速度に達した「質量を持つもの」、または電磁波以外のものは時間の止まった状態になる、という考え方もありえる。ただしこの見方だと、光であることと光速度であることがまったく別の性質であり、光が光速度で動くことは偶然の産物であってもよいという見方もあるということになってしまう。実際のところ、光はかなりの部分で理論上の光速度に達しない速さで動いている。水や大気によって速度は落ちる。その場合に光の時間は進み方が早くなるのか。そして、光が光速度でも時間を有し、同じ速度の質量をもつものが無時間的であるとするなら、時間を左右する要素は質量のみということになりはしまいか。

 そしてもうひとつ、これが私には最も合理的と思える選択肢だが、時間の進みの遅れとは、光の進行に視点を合わせ、これと同期することで全く止まっているように見える、という考え方もありえる。私がそう考えるということではなく、相対論支持者の頭の中で起きていることの推測として、そう思えるということである。つまり光に対し等速併進運動している物体は光との時間差が0であり、遅くなるにしたがって時間の差が生じ、その差が結果として時間の進みとなる、というものだ。相対論の考え方を注意深く点検してみるに、図らずもこの奇妙なとらえ方に陥ってしまっているということは、私には案外正確な描写であると思われる。

 いずれにしても、何者にとっても光速度は変化なしということが相対論の大前提であり、止まっている物体からも、ほぼ光速度で動く物体からも光は光速度で飛び去る。したがって、時間の流れは徐々に遅くなるということはなくて、光速度である場合にのみ突如として時間が停止した状態になるということに、本来であればなるはずだ。もちろん解説書の言い分は「徐々に遅くなる」なのであろうが。

 相対論の時間論は光と他の物質の動きを対比したときの簡単な演算、せいぜいそれを図面に起こしてあれこれ考える行為がもたらしたものである。光の、質量を持たないという性質は、他の物質が光速度に達しないという条件を作るために使われ、それが間接的に因果関係の逆転を禁止事項にする。しかしこの性質だけで時間を持つことの有無が左右されるわけではない。要するに、光のみが「光速度で動くものは無時間的である」という理屈を免れる理由は今のところ見つからないし(着目すらされていない、というのが事実だ)、これからも出てこないだろう。あえて言うなら、これを「規範」として論じることはできるかもしれない。つまり光の性質とはそういうものだ、と宣言することである。E=mc²の場合に、光がエネルギーを持つことは明白なのに、質量は0であると言ってみたり、あるいは重力で曲がるから質量はあると定義されたり、それなら今度は無限大の質量を持つはずであっても、さらになお光は例外なのだと言い張っていたことと同断だ。どちらの場合も明白な反証なので、科学として成立しないとは思うが、とりあえずそういう意見もあり得るということにして先に進むほかはない。

 もう一度繰り返すなら、光は世界のいろいろなものとの関係を実際に結んでいるのだから、無時間的であるとすることは全くのナンセンスであると私は思う。ところが、相対論のいかなる解釈も、光を無時間的とすることによってのみ救いの手立てが与えられる構造になっているのである。