(前節の言う如く)だから相対論は間違っている……としても、考えるべきはその先にある。私たちがなぜ同時的空間の傾きなどという不合理を受け入れてしまうのか。もちろんこれは難しい問題だし、答えはいくつかあるのだろうが、合理的な説明がどこかに存在する、という気持ちが抜けきれないということもあると思う。しつこく繰り返すが、相対論では光速度は絶対的な基準と見なされ、例えば大星雲に近づきつつある私と遠ざかる友人が、ともにすれ違いの瞬間にレーザーポインタを大星雲に向けてかざしたとすると、光は同時刻に彼方に到着する。ここもしつこく繰り返すが、二人の固有の速度は光速度に上乗せされないからだ。光速度が最大限の値なので、それに何かの値を足すことはできない。見逃されやすいところだが、マイナスの値を足すこともできないということだ。ペンローズの考え方を示すと、図のようなものになるのだろう。

 地球で二人の行動が交わる一点で、同時にペンライトを掲げ、アンドロメダ大星雲に向けて光を放つ。しかしその光はアンドロメダ大星雲の時間軸上においてはA、Bという二様の時点に届く。これはしかし正しいだろうか。もっともらしさ以外に、これを支持できる何かがあるだろうか。

 到着はおよそ230万年先になる。大星雲に住む生物が偶然その光を目撃するとして、そこから230万年遡った過去が、私と友人のすれ違いという出来事に対する、アンドロメダ大星雲における同時的空間ということになる。これはペンローズが指摘するような、A、Bという二つに分かれた点ではなく、必ず一つの時点を指すだろう。そうでなければ、光の速度が違うということになってしまう。たとえあり得ない想定として、私と友人の固有時間が違うとしても、そのことに光速度は影響を受けないということが相対論の基本ではなかっただろうか。

 ではAおよびBとは一体何なのか。逆に、このA、Bのように間隔を置いて大星雲の側から光を発して、それが私と友人のすれ違いのような一点に焦点を結ぶことも、これまたあり得ない。では、このうち例えばA点に対する同時的空間は私たちの側の経験ではどういう形になるのだろうか。

 本当は一点に収斂されるはずの同時刻が二つに分かれることが、単純にその時点での位置によるものではなく、速度のパラメータによるものでもないとしたら、一度近づいて、また別の方へ散ってゆく動きということになる。これが時間に反映されるという考えは、なかなか魅力的かもしれない。相対論では時空をひとかたまりのものとして論じ、時間は後から分節されて量が決まる。これが欠点ではなく多くの人に特筆すべき長所とみなされてきたのだ。

 だがそこまで時間と空間を密接に関係づけてしまうのはおそらく不当なのだ。たとえば、すれ違うときに一方がくるりと向きを変えて他方に合わせて歩き出すとしたら、どうなるのか。行き違った後、ふとあの顔に見覚えがあると気づき、立ち止まった。あちらも同時に気づいたと見えて、振り向いた。その後は二人でしばらく並んで歩き、昔話に興じた。この場合、私が近づいて彼と並んだその瞬間に数週間分のタイムリープが生じるわけだ。その時間差とはいかなる意味なのか。ペンローズなら同時的空間の傾きがそれに応じて変化した、すなわちそれまで数週間のずれがあったものが、修正されてほとんど重なる形になるだけだと言うところだろうが、光は誰に対しても常に一定の速度を持つと宣言しているわけであるから、違う同時的空間を持つ二人が、すれ違う際に全く同じ状態のアンドロメダ大星雲を見ていたと言うことはできないはずであり、なおかつ引き返した後では全く同じ星雲を見ることになるのだ。すれ違う際にも同じ姿を見ていたということと、違う同時空間を持つことが両立するという考え方をとるなら、これは多重世界を肯定するということになる。相対論の引き起こす問題のすべてが、いずれはここに行きつくどん詰まりの場所なので、いずれ考えなければならない論点だが、現段階では、私は正しいとは思わない、と言い置くだけでよいだろう。

 さて、もちろん事前に二人とも「私は230万年前の姿を見ている」と言うはずであり、事後も同じことを言うとすれば、どこかでずれが生じているということになる。すなわち、時間か空間か、あるいは双方がゆがまなければならないのだ。もちろん相対論がゆがみを立証するための理論だからそうなるはずのものなのだが、ゆがみの正体を正確に言うことは矛盾を受け入れることなしにはできないはずだろう。

 選択肢は三つあると思われる。最初の一つはタイムリープをまともに受け止め、向きを変えた人は、数週間分の記憶を全く失った、または数週間分をもう一度経験したのだが、そのことに気づかないというもの。これは私がことさら奇異な結論を導き出したように読めることだろう。タイムリープによる数週間のずれは、私たちの経験の連続性ではなく、大星雲の見え方に焦点が当てられていると思え、なおかつ、そもそも原則論として、このきわめて日常的なエピソードに経験の連続性の問題が入り込む余地はないと思えるからである。つまり客観的状況に解決の糸口があると普通には感じる。客観的状況の方に注目する必要がある、という感じ方、そしてその感じ方が何か正しい理屈がほかにありそうに思わせるということにより、数週間の記憶を失うなどというばかげたことはないと、まずは退けられてしまう。しかしそれは理論の導く重要な選択肢なので、実はあるのだ。

 二つ目、彼および私の時間は連続しているが、向きを変えた瞬間に確かに数週間ずれた光を見るというもの。これは光を彼の目が捉えるということに問題を限定し、それがいつ大星雲を後にしたものであるかを訊ねているのだが、要するに私がアンドロメダ大星雲を見ている間にも、私のすぐ近くには数週間前の光も降り注いでいると言っているのだ。さらに、歩くことでこれだけの時間差が得られるなら、走るなり乗り物を使うなりすれば数年のずれもあり得るだろう。これを敷衍すれば、今この瞬間、アンドロメダ大星雲の生涯にわたるすべての時間からの光を地球は受けていて、その中でどの時代の光を見るかは私たちの行動次第という結論になる。さすがにこれは無視したくなる意見だろうが、ペンローズの言い分を素直に受け止めるなら、実はこれが一番文章の内容に沿ったものなのだ。いかなる考え方をとろうと、全く異なる時刻に大星雲を後にした光を、二人は同じこの地球上で、二人同時に見ることができるのでなければ、ペンローズの主張は成立しない。これはあまりにあからさまに反事実的であるので、そのまま肯定する人はいないだろう。したがってその結論に至る前に思考を止め、時間と空間のもつれ合ったゆがみになにかしらこれを解き明かす鍵があるのだろうと予想することになる。

 三つ目は光が誰に対しても常に一定の速度であるならば、時間の違いは当然距離の違いでなければならないことをまともに受け止め、アンドロメダ大星雲までの距離が変わると認めること。これはもちろんこんな小さな地球上での二人の人間の行動が、即座にアンドロメダ大星雲の事実的な(これは何度でも強調しておかねばならないことだ。相対論は、見え方が変わるなどと言っているのではないはずだから)位相を変化させてしまうということであり、あまりに非現実的である。酔っ払いの歩みのふらつきで、いちいち織女星と牽牛星の実際の位置関係が変わるということに賛成できるだろうか。だができると感じる人が多い。この意見を聞いた人は、おそらく時空間把握には個人的な視点があり得るとの感想を抱き、二人の時空間が一致する必要はないと思うだろう。つまり客観的事実についての極端にあからさまな矛盾は、主観的な把握法に解決の端緒があると感じるのだ。最初の選択肢における、「客観的状況に解決の糸口があると感じる」ということの逆の事態である。

 これは選択の問題なのだろうか。すなわちどれか一つを帰結として認めれば解決するのか。じつはすべてが必然的な結果であり、この不思議な現象をひとまとめで語る理屈が必要なのではないだろうか。そもそも、一つの文が三つの異なる現実、むしろ非現実を指し示すことができることが異常なのではないだろうか。すなわち、時空がゆがむとは、説明できないものを説明したと思わせる万能理論であって、最初からいい抜けとしての性格を持っている。歯車が真円であることとゆがんだ形であることは両立しない。しかし「空間がゆがむ」という理解不可能な宣言一つで説明済みと思わせる。その一見説明能力の高さと思えるものは、あいまいさにすぎないのである。だが、私たちはこの三つの選択肢に踏み入る前に、考えるのをやめてしまうだろう。自分が直面している選択肢とは別の、ほかの道筋にこそ何かしら説明可能な合理的解決があると思うからだ。しかし道はどれも行き止まりなのである。

 結局のところ、すれ違う二人はそれぞれの同時的空間を持つというペンローズの主張は、彼が一般的な時間概念と信ずるものに基づいた言い分なのだが、ここで扱われる時間は私と友人の進路が交差するというきわめて特殊な状況のみに当てはまるもので、どちらかが別の行動をとるや、たちまち説明能力を失う。逆に二人が一緒に歩いているときの時空を切り取ると、別れて別行動をとり始めた後の行跡を表現する際に無理が生じる。ここで扱われる時間は、あるベクトルを持った物体を、その限りにおいて時間と空間の完全に融合した状態と見なしてその中で計算した結果を外挿しているからである。つまり単に一つのベクトルの分析に過ぎないものを一般的な時空間理論として出しているので、ほかのベクトルを分析する際には役立ちようがないのだ。

 世界線とはある物体の動きを時空の中で表現しているベクトルのことである。時間と空間は切り離しがたく密接に結びついていると言われるが、時空間の中で、ある対象の動きを追うなら両者が一対一に結びつけられているのは当然のことではないだろうか。むしろ、時間と空間の対応関係以外のものを表現から省いた結果が世界線であると言うべきだ。これをもってほかの部分の時空も「これと同形で」深く関係していると言ってしまうのはどうにも無理があるが、相対論の主張は結果としてそういうことになってしまう。

 相対論では時間は常に空間との関係に置かれるというスローガンを本当らしく見せるため、視点ごとに違う時間軸を採用している。私の視点での時間と、すれ違う彼の視点での時間は全く異なるものであること、そこまではよいとしよう。では、これがアンドロメダ大星雲を眺めて数週間の時間差が生じると書くとき、この時間差を測る視点は何処にあるのだろうか。もちろんこれも相対化されるはずだから、私や彼のものと同様に、固有名のついた時間だ。だが相対論支持者はこの視点の由来を明らかせず、あたかも、一般的な時間概念が存在するかのごとくに語る。つまり先の二つとは違うクラスに属するものとして語るのである。しかし先の二つを関係づけるに足る、一段階一般的なクラスの時間概念は、相対論には存在しない。なぜなら、私と友人の行動が全く同じであるとして、それがアンドロメダ大星雲での時間差が数週間ではなく、ゼロないし無限大にまで変化しうる視点が必ず存在するからであり、数週間という確定した量になる理由は全くないはずだから。つまり、移動速度による質量増加という主張が正しいなら、ブラックホールと白色矮星の違いは視点依存が正しいはずなのに、なぜか当然のごとく白色矮星は白色矮星と分類されるのと同様だ。しかもその明らか過ぎる矛盾を矛盾とは思わない。注目すべきはそこだ。

 古来、著名な思想家や科学者の多数が、単なる語り方の問題に足をすくわれて幻想の虜となってきた。対立する二項だけに着目すると、対等な現実のごとく見えがちであり、実はあきらかな包含関係があるという事実は忘れられ易い。普通の文脈で語られるなら、水に半分浸した棒は、曲がっているのではなく、そう見えるだけであると誰もが結論する。すなわちまっすぐであることとゆがんでいることについては、ひっくり返しようのない根本的な優先順序があると理解する。これは、まっすぐであることが真実であると言うのではなく、文字通り考え方の優先順位の問題であるとする主張だ。

 

 

 

 

 

しかし宇宙からの光が空間のゆがみによって到達時間も位相も変わる、と語られるとちょっと信じてみてもいいと思ってしまうかもしれない。おそらくそれは意図的、すなわち詐術なのではなく、相対論学者の思考の筋道通りに語られている。だからこそ私たちも自然に誤解を共有してしまうのだろう。