ゆがんだ空間を納得させるためにまず持ち出されるのは全体に見通しのきく形だ。普通のまっすぐな空間を単調な平面に見立て、ゆがんだ空間を球体の表面や双曲線の組み合わせとしての平面に比定するわけである。しかし相対論支持者が説明したがっているのは場所ごとに空間の残余が全く違うゆがみとして現れる像のはずだった。つまり、教科書に出てくるようなリーマン幾何学の説明と、相対論の主張する空間のゆがみは、何となく似ているけれども、実は全くの別問題なのだ。

 それはたとえばこういうことだ。一組の酔っ払いが夜道をたどっている。一人はさほどの酔いでもなく、足取りはしっかりしているが、連れは酒に弱く、少し遅れがちになる。そこで時々、連れに気を遣わせない程度に立ち止まりがちにしてそろえる。二人の速度が一致することはない。空には満天の星が見えている。

 相対論では速度が空間のゆがみをもたらすものであるから、二人にとって全天の星は全く違う位置関係を持つはずなのだ。それどころか頻繁に歩速を変える人は瞬間ごとに、宇宙を違うゆがみの元に見ることになるだろう。これはさらりと受け流してしまいそうになる主張だが、ある重大な事実を暗に述べている。すなわち、空の星々から遙かに離れたこの地球上のちっぽけな人間があゆみの速さを変えただけで、数百光年かなたの星どうしの事実的な距離もたちどころに変わると言っているのだ。相対論でのゆがみが、見かけではなく物理的な実体についての記述であるはずなら、ほかの解釈はあり得ない。だが私たちはこのあからさまな書き方のように考えることはまずないだろう。不思議なことに、この主張の異様さを受け入れる気にさえなっている。

 ひとつ注釈を入れる必要があるのかもしれない。相対論の中で空間のゆがみとは主に重力を解説する際に使われる。従ってこの記述の唐突さに違和感を持つ人も多いかと思われる。物体の長さが縮む、距離が伸びる、とは言われるがゆがみとは表現されない。しかし公認の解釈として、この酔っぱらいの一組は全く異なる同時的空間を持つとされている。たとえばベガとアルタイルからくる光が二人には全然違う時間軸の、ちぐはぐなものとなって届くということである。ちぐはぐ、とはランダムではないが地上でそぞろ歩く一組の距離が素直に光の到達時刻に反映されないということで、ここはイメージに頼る描写で十分だろう。この全体像は、ゆがみという3次元的な表現がふさわしいように思う。相対論支持者は例によって、このちぐはぐさが全天の星に及ぶこと、すなわち立体的な広がりを持つことに注意が向かない。少しでも考えたなら、この着想の異様さに気づいたはずではないか。

 よくある解説として、たとえば現実の3次元を平面に見立て、全宇宙は球の表面あるいは馬の鞍形であるという標準的なゆがみの像を見せられる。それが宇宙であると、とりあえず受け入れてみよう。そこに地球にいる二人の酔人と織女星、牽牛星を配置する。確かにこれはゆがんだ宇宙像だが、ベガまでの距離25光年、アルタイルまでが17光年、そしてそれらどうしの距離は14光年であることは決定された事実として書き込むことができる。変形の形によって距離は変わっているかもしれないが、その形なりに動かしがたい数値として不変であるべきだろう。その意味は、たとえばこの中で一人が動いていたとして、残りの三者、連れとベガ、そしてアルタイルの位置関係は変わらないということである。満天の星を描き込めば、それは常に標準形としての役割を果たす。そしてゆがみとはそういうもので、受け入れる余地もあるのかもしれない、と思う程度のまとまりはある。

 しかしながら、相対論の主張はそういうものではない。一人がゆっくりと歩いただけで、この布置図はもう役に立たないだろう。もちろん連れの視点からは共有できる部分は全くないはずで、それはつまりベガとアルタイル間の距離も二人の行動によって自在に変化するのである。これらと地球を結ぶひしゃげた三角が正三角形になるようなことはないにしても。ただしそれは二人が歩いているからであって、超高速の宇宙船を使うとなると、もっと大げさな話にもなりえる。

 上記の話を私が一方的に非常識だと決めつけたところで、どこが不都合なのか、何となく掴み兼ねる人が多いかもしれない。ペンローズという人が、もう少し深堀する材料を提供しているので、それを使ってみる。

 その著書『サイクルズ・オブ・タイム』(残念ながら未訳のようだ)の主張によると、地球上ですれ違う二人の歩行者は全く別の同時的空間を持つ。“ずれ”は遠くへ行くほど大きくなり、アンドロメダ大星雲辺りでは、数週間分のずれとなる。ことさら超高速を出さずとも、遠くのことまで巻き込めば大きなゆがみを構築できるということだ。一応原文を書き出しておく。

“Two walkers amble past one another, but the event X of their passing is judged by each to be simultaneous with the events on Andromeda differing by several weeks”

 二人の歩行者がゆっくりと行き違うとき、出来事Xに遭遇した。その出来事と同時刻にアンドロメダ大星雲で何が起きていたのかということについて、二人の判断対象には数週間の違いが生じる。――そんなところだろうか。

 時間のずれとは何かについて考えるうえで、まず抑えておくべきは次のことだ。光は絶対的な基準であるから、時空の伸び縮みや個人の動きに左右されることはない。すなわちアンドロメダ大星雲までの距離を230万光年とするなら、私が向けたレーザーポインタの光があちらに到達するのも、あちらの住人がこちらに向けた光を私が目撃するのも、ともに230万年後であって、これを理屈で動かすことは許されないということだ。したがって「同時的空間」が変化するものなら、以下のいずれかの事態が生じ得ることを意味する。

 選択肢1、二人がすれ違う際に彼方へ向けて放った光が別の時刻にあちらへ届く。選択肢2、あちらの住人が数週間の間をおいて放った別々の光を、それぞれ二人がすれ違う際に同時に受け取る。選択肢3、あちらの住人が発した一本の光を、すれ違いざまに二人で見るが、それぞれに違う時間に発したものとして認識するので、同じ事象があちらでは二度起きたことになる。いずれも直観的にはあり得ないことだが、理屈として成立するということが相対論の主張である。

 なぜこの三項目が並んでいるか、少しわかりにくいかもしれない。ペンローズの頭の中では、すれ違う二人の時間の進みにずれがあり、230万年というスパンに拡大してみると、それは数週間もの違いになる、ということであろう。そしてその不明瞭な言葉は多くの読者にはもっともらしく響くだろう。しかし、すれ違いの瞬間に私がアンドロメダ大星雲内の超新星爆発をちょうど目撃したが、相手にはそれが見えないとか、見えているのだが実はそれは幻影で、数週間後に本物を見るとか、相手には見えるが私には見えないとか、そんなことが本当にあり得るものだろうか。ありえる、ということが相対論(ペンローズ)の主張であり、そのためには前記の三項目のいずれか、あるいはすべてが成立する必要がある、ということだ。

 二人に区別をつけるために、私と友人ということにしておく。私には友人と呼べるような人物は存在しないが、とりあえずの話だ。

相対論の時空概念は矛盾しているので、あちらもこちらも正確に表現するということはできない。時間か空間のいずれか、あるいはほかの部分にごまかしを仕込むということになる。しかしいったん絵にしてしまうと、いかにも筋が通っているように思え、それに対する私の説明のほうが間違っているようにとられかねない。世の中にはたくさんの相対論解説書があるが、いずれも必ずごまかしを含むということは覚えておいてよいだろう(もちろんこれは私の主張に過ぎないから、受け入れる必要はない、とはいえ)。

 2本の世界線を交差させ、その一点にそれぞれの同時的空間を適当な角度をつけて描くと、遠くに行くほど広がる形になるので、いかにも正しい主張を聞いた気がする。

 しかしこの説明図は明らかに間違っているのだ。なぜなら、わかりやすく説明するための当然の設定として、地球とアンドロメダ大星雲の距離は変わらないことになっており、したがって時間の進行速度に違いはない。そうであるなら、あちら側で数週間のずれが生ずるとしたら、すでに地球側でも同じ大きさのずれがなければならないからだ。

 第一感は、まあ何を言っているのかよくわからないということを除けばとしてだが、私のこの意見のほうが間違いであるということだろう。現実に地球で数週間の時間のずれなどという事態を目撃することはできないし、遠くでそのずれは増幅できそうな気がしてしまう。そして、違う行動であれば違う時間進行を伴うということが相対論の前提なのだから。

 ペンローズはおそらく相対論中のいずれかの式を当てはめてみただけなのだろうから、具体的な考えをたどることはできにくいのだが、一例として次のような思考経路はありえる。ただしこれはこの通りに考えたということではなく、計算したことの意味内容が結果としてこうなる、ということである。

“私がレーザーポインタを向けた時点の同時刻を求めるにあたって、光が大星雲に届いた時点から230万年さかのぼることにする。しかし大星雲と私は時間の進み方に差があり、その場合に、運動体である私のほうが進行は遅いことになる。したがって、230万プラスアルファさかのぼった時点が同時刻である。”

 しかし逆に230万プラスアルファさかのぼった時点にあちらから放たれた光は、私が地球側から光を放つ瞬間に届くのではない。プラスアルファの、そのアルファ分だけ前に届いている。なぜなら地球にはすでに届いているのであり、その地球対私の間で、大きな時間のずれなど目撃できない、ということがはっきりしているからだ。相互関係が成立していないので、私の光放出の瞬間と、それがあちらに届いてから230万プラスアルファの瞬間は、同時刻ではありえないだろう。

 光速度不変の原理を守るなら、速度による時間の進み方の違いということは成立しない。一見、すると思えるが、実は逆だ。相対論において時間のずれは方向性を無視した単純な速度で決定されるので、私、友人、アンドロメダ大星雲の三者が別別の速度を持つだけで条件が満たされるはずである。したがって例えばアンドロメダ大星雲を中点とする巨大な球体の表面で私と友人の歩みが交錯する形、すなわち二人は常にアンドロメダ大星雲から等距離にあるという図でも、同時的空間の傾きは生ずるということになる。

 二つの矢印の起点と先端において、大星雲からの光の到達時間はどちらも230万年である。このことは両者の長さの如何にかかわらず、すなわち速度の大小にかかわらず同一である。片方が歩く速度、もう一方がほぼ光速度であっても、やはりベクトルの始点と終点において、そして道中のすべての時点で、光は同じ時間を費やして届くからだ。同時的空間の傾きなど生じようがない。ペンローズなどの主張は、二つのベクトルの交錯点においてのみ光の到達時間が一致し、ベクトルのほかの部分では変わるという漠然たるイメージを含むものであると思うのだが、この図のような距離関係においてそのことは成立しがたくなる。すなわち交錯点がアンドロメダ大星雲からの光を同時に受け取るのであれば、ベクトルの始点どうし、先端どうしにおいても同じ瞬間の光を受け取るはずなのだ。二つのベクトル上のいかなる時点においても、アンドロメダ大星雲から発する光、そして私と友人がそちらへ向けて発する光は同じ時間をかけて、同じ距離を移動して相手方に到達する。

 その意味は、三者にそれぞれ時計を持たせたとして、その進行は常に同期するということだ。これは絵にかいたごとく相対論の同時刻についての定義にかなった相互チェックが常に可能な状態であり、時間の伸び縮みが入る余地はない。すなわち、運動状態は時間の進行速度に影響を与えることはできないのだ。もう一度確認しておくが、相対論において時間の進み方は速度の見に依存する。したがってこの大球の例が、ここでだけ成立する特殊例というわけではない。

ところで、アンドロメダ星雲を取り囲む大球で考え得たことは、そっくりそのまま地球をめぐる衛星にも応用できる。つまり地上から衛星までの高さを考えるのではなく、地球の中心からの距離という考え方を取るのだ。わかりやすくするため、モデルに頼ってみる。小さなステーションを中空に設置し、そこを中心に15万㎞の位置に複数の衛星を巡らせる。衛星の速度はそれぞれ違うものとする。

 この衛星は非常に特殊な時計を積んでいる。光をステーションに向けて放つと、それはおよそ0.5秒後に到着し、するとステーションはその衛星に向けて光を投げ返す。衛星がそれを受け取った時点を振り子の一往復とみなし、全体の工程を1秒に設定する。これはもっとも相対論の原理に忠実な、正確な時計のはずだ。ファインマンが光時計というものを夢想したように、根本原理である光を使って時間を計るということが、相対論の理想なのだから、文句のつけようがない。

 すぐにわかるように、衛星の速度がどうであろうと、時計の進み方は同じだ。すべてがステーションの時間の進みに同期するので、それは当然だろう。では、本当は衛星ごとに時間の進みが違うのに、無理にステーション基準の時間を当てはめているということになるのか。

 そうではない。相対論の論文も、あるいはヘルマン・ワイルのより数学的に洗練された理論でも、それぞれの場所に時計を置き、その同時刻のチェックということに光の信号を使っている。これによって、それぞれの時計が固有の時間を刻み、しかし光信号によって相互チェックは可能であるという漠然とした印象を人は持つことになる。しかしよく諸論文を読めばわかるとおり、時計が刻む固有時間より、光信号のチェックが正しいとされる。時計の存在はただ「それぞれに固有の時間の流れがある」という印象を作るために使われているのだ。ならば話は簡単で、衛星に適当なゼンマイ時計を積めばよい。そしてそれを1秒周期の光のやり取りで厳格に調整する。これで相対論関連の諸論文に見る、同時刻の定義にかなう時間計測システムになる。

 ここから導かれる結論は、衛星の速度がどの程度であろうと、時間の進みに差はない、そしてその時間の進みは地球のコアとも同期するのであって、したがって地上の時計とも同期する、となるだろう。つまり相対論の枠内で思考するとして、光速度が一定なら時間は伸び縮みしないし、時間を可変的とするなら光もそれにかなう相対速度を持つことを認めるほかはないのだ。