相対論の仕組みを解説しても、なかなか通じにくい。例えばローレンツ変換がピタゴラスの定理の変形に過ぎないと書いたとして、それが何なのだという気にしかならないだろう。そこで言いたいのは、それを現実に重ねて考えるから複雑に見えるのであって、実はそういう数学的な構築物であり、現実とはかなりずれたパズル的なものであると認識することだ。しかし人はこれを現実の描写として受け入れた。不思議なのはそこかもしれない。もともとは、光が光であるためには万人に同じ速度でなければならないという思い込みである。現実との整合性は考慮されずに考察された、仮の話である。それを現実と突き合わせようとするからよくわからなくなる。

 もう一つ厄介なのは、相対論の言説は一般の常識的感覚をかなり取り入れていることだ。例えば時間の長さが人によって違うということは、確かにそうなのだと思わされてしまう。また例えば高速移動中のものは進行方向に沿って長さが縮むと言われると、漫画の影響かもしれないが、とてももっともらしく思える。それらのことが、一般常識からかけ離れた途方もない主張と一体のものとして語られている。まずは常識が肯定したくなる部分と、明らかに常識的ではない部分をきれいに腑分けする必要があるのかもしれない。だがそれはなかなか入り組んだ話のようにとられかねず、説得力を持ちにくい恐れもある。

 以下のことは、なぜ相対論の主張するナンセンスな時空概念を人々は受け入れてしまうのかということへの、多少の考察だ。したがって必ずしも理解することを求めない。退屈かもしれない。

 主観的、と私たちが言うとき、そこには明らかに二通りの意味を使い分けている。いい加減であること、すなわち間主観的という意味での客観性が欠如した状態を指して言うことがあり、それが主な意味と受け取られているだろう。間主観的とは、「意見が一致する」という程度に考えておいてよい。フッサールはもう少し強い意味での客観性を求めていたと思うが、それは理論的な飛躍が潜んでいると思う。

 しかし一方で、裏付ける必要のない、絶対的な基準として使うこともある。なぜなら客観的なものは主観によって肯定される必要があるからだ。例えば私が赤い色と見ている物を、ほかの人は実は私にとっての青い色であると見るかもしれない。しかしどちらも経験的になじんだ「赤」と表現する。生まれてからずっとそれを「赤」と言い慣わしてきたのだから、当然そうなる。そして誰かにこれは何色かと訊かれ、どちらも「赤」と言う。意見が一致する。しかし実は違う色を見ている。そのことに対し、フッサールの理論は十分な答えを出していないのではなかろうか。つまりそれは言語(理論)が優先する考えであると思われる。

 意見が一致することは、十分な客観性を保証しない。理論的にはここが限界かもしれない。しかしとりあえず、赤色が赤であることは、私が主観的に肯定することで成立するだろう。

 主観と客観は反対の方向を目指す概念ではなく、現実の方にむけられた一対の方法論であり、それらが一致すると感じられたときに納得感が生じる。2センチならこの長さ、30分ならこのくらいという感覚的な裏付けが、実は客観性を支えているのだが、そのことは忘れられがちである。これはどのくらいの長さだろう、と人に尋ねることも、定規に尋ねることも、どちらが主観的か客観的かということはない。答えを貰って、それで納得すれば終了だ。ついでに言うなら、この日常感覚の時間と空間を超えるような深い形而上的な意味がどこかにあると思うべきではない。日常的なことが最も深く複雑なのだ。したがって形而上的な意味はそこにこそ色濃く表れる。原子時計とボンボン時計の差は、どちらが正確で細かい刻みを表現できるかの差であり、原子時計が何か深遠な形而上学的概念によって駆動しているということではない。

 客観的な事実とは、同じ程度に主観的事実でもある。だがこのことは忘れられやすく、客観的な事実のみですべてを成りたたしめる方法があると私たちは考えてしまう。相対論はこの決定的な間違いの例であり、かつうまくその部分を衝いた思考だろう。納得感、その感覚的な部分を他所からの視点に求めており、またそれを受け入れる人は感覚的な部分が説明されたと感じるのでこれを正しいと錯覚するのだ。しかし感覚的な裏付けは当の本人にしか与えられないものだろう。 つまり赤が赤であるということは、自分がその色を見てそう思うことであり、他人との意見のすり合わせではない。真に主観的であることでしか客観世界は理解できない。これはポストモダン以降、制度による、あるいは習慣による刷り込みが私たちの主観に潜むという説のおかげで、大いに誤解される元となったが、それらのいわゆる偏見は取り除くことが可能なものだ。間違いや幻想などという、根拠のない妄想が方法的懐疑として深い意味を持つという理屈を広めてしまったのはデカルトとそれに続く哲学者たちだった。彼らの説が、主観と客観の絶対的分離を招くもととなった。あまたの貢献を台無しにする誤謬というべきではないだろうか。

 ニュートン力学の空間を単なる数学的表現と受け取った場合、感覚的な部分の正当性までも求めているわけではないと解釈できる一方、それが絶対空間という名称であらわされるとき、おそらく感覚的な部分の正当性まで望んでいるという仮定がある。この違いは重要だ。なぜならそれは理論の正しさとは無関係な否定および肯定だから。

 ニュートン力学の提示する時空が余りにも等方的、かつ画一的であることについて、不安な気持ちを誘われる点があるかもしれない。ここまで単純な時空間認識に「絶対」という名を冠するのは傲慢のようでもある。方や、相対論はかくも複雑でありながら、視点による見え方の相違を根幹に据える点で、未熟な人間ごときに宇宙の全体像はなかなかとらえきれるものではないという、何となく謙虚な外観を持つ。

 ただしいずれも誤解である。意表をつくことだろうが、神の視点と称されるような尊大な特徴はニュートンの時空間把握にはない。もちろん彼自身がどう考えていたのかは別の話だが、絶対性という言葉で表現できるようなニュアンスは、その後の科学万能主義の中で徐々に形成されたものだった。

二人の人物AとBが互いに目視できる場所にいるとする。それぞれの近くにオブジェがあったとする。自分たちの近くにあるオブジェを方眼紙に写し取り、互いに見せ合ったとき、縮尺などについて約束事を作っておけば、後で共通の知識として役立つだろう。まったく違う場所に行ってもこの方眼紙を使い、約束事どおりにスケッチすることに決めておけばさらに便利だ。この方眼紙と約束事のセットが、ニュートン力学が堅苦しいばかりに画一的であることの意味である。宇宙の仕組みそのものにこのセットが組み込まれていると信じる必要はない。それは哲学的な主張であって、科学が責任を持たなくても良いことだ。もしかすると宇宙はゆがんだ空間なのかもしれない。その場合でも、ニュートンのセットはそのまま役立つ。ゆがんだ空間の中では、方眼自体もゆがみ、物体もそれに従うからだ。むしろ、なぜその空間の住人にゆがみが分かるのか、ゆがみが最初からわかるとする相対論のほうがとても変な話だと思う。

 このように言うと、相対論のほうが系に依存しないより強い法則の同一性を打ち出している、すなわち相対論の提供するセットの方がより汎用性が高くなおかつ正確であるという反論があるだろう。しかし相対論ではAに対してBのそばにあるオブジェの姿を写し取ることを求め、それはBが見たこのオブジェの映像と違うのだからBの書き写しは正確ではない、と言うのだ。つまりたとえば静止するAが高速移動するBの時計を見てゆがんでいると思い、Bが時計を丸いものと描くのはおかしいと言う。

 では何が正確な映像なのだろうか。ごく常識的に、近くで子細に見ることが一番良いに決まっている。もちろん遠くからのほうが全体の概観が得られ、よい場合もある、などという批判は、正論かもしれないが単なる揚げ足取りだろう。ここで言うのは同じ静止系に属するものとして描写するという意味である……としても、移動するドローンを通して見るほうがよい、とさらに批判されてしまうのかもしれない。近くで子細に見ることが一番、というあいまいな書き方が悪かったのだろう。ニュアンスが伝わることを期待するしかない。

 よく勘違いして説かれるのは、ニュートン的なものの見方が私たちの日常感覚に近く、相対論はそれに改変を迫ったというものだ。そんなことはない。私たちは遠近法で描写されるような具合にしか世界を捉えていない。例えば太陽は腕を伸ばして持つ十円玉の大きさにしか見えない。Bのそばにあるオブジェが、Aの位置からでは米粒大に見えるが、実は人の背丈ほどの大きさであるとしたら、それを理解するには想像による補正が必要だろう。想像とはある意味での数学的な処理のことだ。この補正を私たちはあまりに無自覚に遂行するので、ニュートン式の世界観が「日常的」と感じられる。しかしその描写はかなり理性を使った末の、複雑な解釈に頼った世界像なのだ。つまり太陽は近くで見たらとてつもなく巨大な物体であることを、私たちは余りに自然に理解する。

 相対論こそむしろ、十円玉の大きさの太陽と米粒大のオブジェをそのまま肯定する理論ではないだろうか。相対論は複雑膨大な座標変換論であるという言い方をされることがある。その場合に変換の式を通じて結ばれた二つの世界観は等値であることになるだろう。しかし、その変換式の一方はあまりにアドホックな性質を持つため私たちは貫徹することができない。すなわち曲がった棒を空間のゆがみのせいであるとする理論体系は生活空間のほかの部分がどれもこれもまっすぐであるという事実をうまく説明できないだろう。太陽を十円玉の大きさではなく、バスケットボール大に、あるいは砂粒程に見る視点もあるが、その上にいちいち力学体系を構築することはできない。

 ここで一つ心配なことは、私が視覚的情報を例にして相対論の遠近法を述べてしまったことだ。重く見える、短く見える、時間が間延びして見える、という遠近法は相対論の中に確かにあるが(ヘルマン・クラウス・フーゴー・ワイル、Hermann Klaus Hugo Weyl、の著した『空間、時間、物質』、Raum, Zeit, Materie、1918 、の中で、特に強調される理念が、相対論は一種の遠近法である、ということだった。ワイルは理解を助けるためにこう書いたのだろうが、皮肉なことに相対論の最も重大な欠点をも自覚なしに指摘していたことになる)、小さく見えることをそのまま肯定する論法は存在しない。これはわかりやすく語るという目的で出した例だが、全くの言いがかりであるとする非難が起りえるかもしれないとは思う。ただし、小さく見えるという遠近法が存在しないことは、実は相対論の重大な欠陥の一つだ。つまり、遠近法によって太陽が小さく見えている、しかし質量は実際のままの大きさを採用し、その小さな中にきっちり詰め込まれているという論法なのである。

 例えばある素粒子が光速度近くまで加速されて質量が増えたとして、崩壊せずに同じ素粒子であり続けるなどとは、私には何となく釈然としないものがある。はっきり言って、そんなことはあり得ないのではないか? ただ、質量が増えたからどうなるという理論はないのだろうし、現に崩壊したとか変質したとかいう例はないわけなので、研究テーマにはならないということなのだろうか。少なくとも、量子論と相対論は相反するということは常識となっているので、あえて組み合わせた論考は皆無なのであろうとは思う。ただし、粒子加速器でブラックホールができてしまうという半ばオカルトめいたことは話題になった。それで言うなら、諸論文においてアインシュタインは光子にも質量が存在すると表明しているわけであり、では光速度で動く光子は無限大の質量を持つはずなので、ブラックホール化しなければおかしいではないか。こういうことは相対論がぜひとも弁明しなければならない論点だろう。

 一応こちら側の理屈を書いておく。光子はエネルギーを持つ。したがってE=mc²から、光は質量をもつ。質量をもつものが光速度まで加速されれば質量は無限大になる。したがって光子はブラックホールである。どうだろうか。異論の余地はないと思われるのだが。

多少読みえた範囲で結論を書いておくと、その疑問に対する回答は「光はエネルギーを持つが質量は持たない」という一方的な決めつけばかりだった。それはさすがに論外だと思うのだが、相対論の支持者はこれでよいのだろうか。エネルギーを持つが質量を持たないということが事実によって証明されたのだ、それが分からないような奴は一から学びなおせ……ということらしい。相対論に沿った思考をしているつもりなのに、いつの間にかこちらが現実を無視したことになっている。

 光がE=mc²の例外扱いになる理由を、私自身考えてみないでもない。一番ありそうなことは、相対論において光は特別な存在である、以上証明終わり、というものだ。まあそれはさすがに論外なので、例えば光の特別さとは、明らかに光速度であることなのだから、そこから合理的に導く手段はないか。光速度においてのみ、速度が直接エネルギーに変換され、質量がゼロでもE=mc²が満たされる、などとか。この式が言っているのはmがゼロならEもゼロであるということだが、光に限ってはmにcを代入することが許される、すると2乗されているcの一つが消せるので(?)光のエネルギーはcであるという結論になる……何となく完璧?

 もちろん私が考えるということは、相対論支持者の頭の中でいかなる処理が遂行されているかを推理することにしかなりようがないので、純粋に考えることとはまた違った難しさがある。ぜひとも支持者の見解を聞いてみたいものだ。

 光子が例外であることを納得のゆく理論で示さない限り、光子はE=mc²の明確な反証として残りつづける。それを指摘することが不勉強の証であるなどとは、あまりにも常軌を逸したたわごとと言うべきだ。

 

 土日は別のことを書こうと思っていたが、私はどうもこういうことを書きだすとほかのことが考えられなくなるほど好きらしい。それでいて、ほんの少ししか新しいことを付け加え得てないのだが……。